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日本キリスト教団向河原教会 説教集(過去)

コロナのため礼拝が休止になる以前の礼拝説教要旨、および、録音が保管されています。 メニュー 説教一覧(過去)から、ご覧になれます。 説教一覧へ 向河原教会公式ホームページへは下記より ホームページへ移動

本当に、この人は神の子だった 石丸泰信牧師 マタイによる福音書27章45-56節

説教要旨 4月5日   録音 「本当に、この人は神の子だった」 石丸泰信牧師 マタイによる福音書に27章45-56節 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この言葉はマタイ福音書が記す最後の言葉です。この約束は主イエスが天に挙げられた後も変わりませんでした。弟子たちは集まって、パンを割き、主に祈りながら、主と共にいることを経験していました。今日の礼拝には聖餐式のパンはありません。しかし、それがないからといって「あなたがたと共に」という約束は変わることはありません。 コロナウイルスというのは「共に」をさせなくさせるものです。集うこと、一緒に食事をすることをさせなくする。しかし、今日の聖書の箇所は反対に人と人、人と神さまとのつながりを作る場面です。主イエスの死の際、 「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」 たと言います。この垂れ幕は神と人との隔ての象徴です。主の死は隔てをなくす死でした。 そして、この言葉に注目したいと思います。 「本当に、この人は神の子だった」 。百人隊長を代表とする多くの人々は 「地震やいろいろな出来事を見て」 、この言葉を言いました。ここには、神殿の垂れ幕が裂けたこと、墓が開いて聖なる者たちの体が生き返ったこと、多くのことが書かれていますが、そのどれもゴルゴタの丘にいた彼らには見えないことです。彼らが見聞きしたのは 「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」 と叫び死なれた主イエスの姿だけです。  ある人は、この言葉が好きじゃないと言います。なぜなら、疑問符(?)が語尾に付くなんて、およそ、神らしくないからです。神には「光あれ」、「黙れ、静まれ」のように感嘆符(!)が付く方が相応しいからです。 どんなときに「なぜ、わたしを見捨てるの?」と言うでしょうか。あまり、その場面はないと思いますし、むしろ、そう言わなくて済むようにして生きていると思います。もしも6歳児が旅行先で家族において行かれたら、きっと言うでしょう。「なぜ、置いていくの?」。しかし、もしも、その子に知恵と力とお金があれば、一人タクシーに乗って怒りながら帰ってくるでしょう。ある大型犬も、飼い主が出かけようとすると一緒に行けるものと思って付いてくるそうです。でも、どうやらそうじゃないと感じると、「なぜ、わたしを置いてい...

二人のイエス 石丸泰信牧師 マタイによる福音書27章15-26節

説教要旨 3月29日 録音 「二人のイエス」 石丸泰信牧師 マタイによる福音書27章15-26節 主イエスの裁判の場面です人々は妬みのために主イエスを裁判に引き渡しました。裁判官である総督ピラトは騒動が起こるのを恐れ、十字架刑を決めました。誰の目にも、おかしな裁判です。しかし、主は黙っていました。きっと言いたいことはたくさんありましたしかし、主は口を開きませんでした。なぜか。赦すというのは沈黙することだからだと思います。もしも、ここで主イエスが言い返し、彼らを告発したとしたら誰ひとり救われることはないのです。 この箇所を読むと腹を立てる人は多いかも知れません。わたし達であれば、この人々のことも、ピラトのことも許さないと思うかもしれない。けれども、主は沈黙の中に赦そうとされます。なぜか。この人たちが赦されないのならば、わたし達も赦されないからです。妬ましい人がいても、一人のときは悪口を言わないかもしれない。けれども、数人集まると、人の悪口が楽しくてやめられなくなります。その陰口が、その人を死に至らしめるだなんて考えずに。ピラトもそうです。彼は聖書を読む限り、善良な人間です。人々の言葉にも、妻の言葉にも耳を傾ける善良な総督。しかし、過ちを犯すのです。ここに出てくる人たちは、わたし達となんら変わらない。 使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白します。ある人は、「これはピラト、あなたの問題だ。わたしには責任がない」と言える人がいるだろうかと言います。「わたしのもとに苦しみを受け」と告白できて初めて、本当の信仰告白になるのではないか、と。 沈黙の中に赦されることは、わたしも日々、経験しています。牧師室になぜか置いてあるタイヤ。週報のミス。散らかりっぱなしの書類。もしも告発されていたら、もうとっくに追い出されています。沈黙の中に守られ、赦され、今があります。 聖書は「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と言います(ヤコブ1:19)。テレビを見ても、すぐ政治家たちにものを言いたくなります。自分の正義を振りかざしたくなる。しかし、赦し、受け入れるのは「話すのに遅く」、黙ってみることから始まります。 その結果、許されて釈放されたのは「バラバ」という人物でした。彼は他の福音書では「強盗」とも「人殺し」とも紹介されています。いずれにしても「評判...

主の祈り 石丸泰信牧師 マタイによる福音書26章36-46 

説教要旨 3月22日 録音 「主の祈り」 石丸泰信牧師 マタイによる福音書26章36-46  説教のタイトルを「主の祈り」としました。場面はゲツセマネでの祈りです。主が教えてくださった「主の祈り」の場面ではありませんが、主がゲツセマネで祈られた「主の祈り」の場面です。「ゲツセマネ」とは「油絞り」という意味です。オリーブ山の中に油絞りの広場がありました。おそらく、そこは木々が少なく、満月の明かりに照らされたところであったと思います。主はわざわざ、弟子たちを連れてそこに来ました。主の祈りの姿を見て、聞いて、記憶に残してほしいと思ったのかも知れません。 主イエスは弟子たちの所から離れ、一人祈りをされます。戻ってきては弟子たちを起こし、また、離れて祈る。それを3回繰り返されました。ここでの主が強調されていることは、「わたしと共に」ということです。「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言います。また、「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」とも言われます。これは弟子たちだけでない。わたし達への言葉でもあります。目を開ければ、主イエスが祈っている姿が見えるくらい、近くに、共に主はおられる。だからこそ、目を覚まして祈ってほしい。やがて、弟子たちは逃げ出して言ってしまいます。「立て、行こう」と主は仰いますが、目を覚ますことができずに眠り込んでしまっている弟子たちは、主イエスとは別の場所へと行ってしまう。主はそうならないように「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と何度も仰いました。 ここでの「誘惑」という言葉は、主の祈りの「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」の「試み」と同じ言葉です。聖書では「ふるいにかけられる」という表現で試みや誘惑を表現することがあります。ふるいにかけて不純物と本物を分ける訳です。ある人は、一度くらいならば、人は誘惑に勝てると言います。しかし、それが三度四度続くと、ふるいの揺れる動きがゆりかごのような心地よさになって眠りに落ちてゆくのだ、と。弟子たちも眠るようにして誘惑の中に落ちてゆきました。 そのとき。主イエスが祈っていたのは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」という祈りです。神の御心が分かれば、わたしも従えるのに、しかし、いつも御心が...

聖書のユーモア 石丸泰信牧師 ヨナ書4章1-11節

説教要旨 3月15日 録音 「聖書のユーモア」 石丸泰信牧師 ヨナ書4章1-11節  ヨナ書は3章までは楽しい話が続きます。けれども、4章になると急に難しくなる。難しいというよりも分かりたくないという方が正確かも知れません。分かりたくないから難しいといってわからない振りをしたくなるのだと思います。4章は信仰者へ向けた話です。3章まではヨナの姿を追って読んでいたかも知れない。しかし、ここからヨナがわたしの姿に重なるのです。 ヨナは1日中、同じ言葉を語ったこと3章は伝えています。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(3:4)。最初は恐かったと思います。同胞が滅ぼされた町です。笑われる、攻撃されるのではないか。小さな声しかでなかったと思います。しかし、誰も危害を加えてこない。だんだん声は大きくなったでしょう。お前たちが滅びることを神が決定された。ずっと我慢してきた復讐の時です。ヨナは嬉しかったに違いない。ここにもわたし達の姿があるかも知れません。誰にでも憎むべき相手があると思います。自分を攻撃してくる人たち、思い通りにするのと邪魔する人たち。どれだけ眠れない夜を過ごしたか。いなくなってくれたらどんなに楽か。しかし、それに向かって神は災いをくだすと仰る。ヨナは思ったでしょう。神はわたしの味方だ。けれども、ヨナが語り始めた途端、歩いて3日間かかる町を1日分歩いただけで皆が皆、悪の道から離れてしまうのです。そして、神も思い直してしまった。これはヨナにとって辛いことであったと思います。神さま、赦すと仰いますが、それではわたしの受けた屈辱、痛みはどうなるのですか。あなたに従って言葉を伝えたのに、どうして彼らの側に立つのですか。 「そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした」。この出来事を受け入れられずに、きっと何か起こるだろうと信じるヨナは見届けようとします。「あと四十日すれば・・・」と言っていました。40日間の観察の始まりです。 「すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ」。ヨナは思ったでしょう。神は味方だ。「ところが翌日の明け方、神は虫...

どん底から響く感謝の歌 小松美樹伝道師 ヨナ書2章1-11節

説教要旨 3月8日 録音 「どん底から響く感謝の歌」 小松美樹伝道師 ヨナ書2章1-11節 物語の口調で書かれたヨナ書は、ヨナが神からニネベの街に言葉を伝えるようにと、任を与えられるところから始まります。けれどもヨナはイスラエルの敵であるアッシリアの都、ニネベになど行きたくありませんでした。敵など悪に埋もれて、神に滅ぼされてしまえばいいと思ったのでしょう。そこでヨナはその勤めから逃げ出し、また神からも逃げ出します。「地の果て」とも言われる程遠いタルシシュへ船で向かいます。「ヤッファに下る」( 1:3 )、船に乗り、「船底に降りて横になり」( 1:4 )、こうしてどんどん神から離れていきました。神は 嵐を起こして海を荒れさせます。困り果てた船乗りたちに、 ヨナは「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。」 (1:11) と言います。ヨナは荒れ狂う海に投げ込まれました。「主から逃れようとして」 (1:3) どんどん降ってきたヨナは、 とうとう海の底、陰府にまで降ってしまいました。陰府とは、神に祈っても祈りが届かないところという言い方がされます。 世界との断絶で、 「扉を閉ざす」 世界です。 自分が望んで神を避けてきたはずでした。けれども、神の御顔の届かない所というのは、人の生きられる所ではありませんでした。もうだめだと、助けてと祈ったのだと思います。すると神は、巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませました。今日の聖書は、その魚の腹の中で祈られた、ヨナの祈りです。預言者が神からの命令を拒んで逃走するような、他の聖書の箇所には無い描き方がされています。預言者であるヨナの小さな子どものような行動に、イライラするような思いを持って読んでいたことがありました。逃げる。嫌だよ、やらないよという態度。黙っていて、周りに迷惑かける。そのくせ窮地になると、助けてと言う。でもそれは私たち自身の姿なのかもしれないと思いました。また、預言者というと今の時代にはいない者、自分たちとは関係の遠い存在と思われているかもしれないけれど、今この礼拝に招かれ、神の言葉を聞く私たちに語りかけられていることなのだと思います。そう思ったとき、ヨナの気持ちもわかるかもしれません。また、父なる神、つまり親の愛情を一心に受けたい思いから、親の愛する他の兄弟を妬むような思いや、嫌いな人のためになぜ私がやらなくてはならな...

たといそうでなくても 石丸泰信牧師 ダニエル書3章16-30節

説教要旨 2月23日 録音 「たといそうでなくても」 石丸泰信牧師 ダニエル書3章16-30節  ダニエルの置かれた状況は、わたしたち日本のキリスト者に似ていると言われます。ダニエル書はバビロニア帝国が舞台の物語です。エルサレム神殿は崩れ、イスラエルの人々の多くは捕囚としてバビロンに連れて行かれます。ダニエルも、その一人です。そこで待っていたのは自分たちの信仰を全く理解しない異教の社会でした。彼らは全く違う価値観の世界に投げ込まれてしまったのです。その中でどう生きるか。ある人たちはイスラエルの信仰と習慣を捨て、バビロニア人として生きようと努めました。あるいは、頑なにイスラエルの伝統を固持した人たちもいます。バビロニアの活動には一切参加しません。価値観の違う社会と接しないことが信仰を守る唯一の手段だと見なしたのです。他方。ダニエルは、そのどれとも違う生き方をしました。 ダニエルと3人の友人、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、将来バビロニアに仕える為、宮廷に召しだされ、そこで生活していました。宮廷の食事は肉と酒でした(1:8-)。しかし、彼らは、それを口にしまいと決めるのです。バビロンの食事は汚れだということではありません。最初は食べるだけ、しかし、いつの間にか異教の習慣に巻き込まれてしまっていたという事態を避けたのだと思います。彼らは自分たちに与えられている自由を用いて一線を引いたわけです。他方、彼らはしっかり王に仕えました。王の夢を解き、貢献し、彼らは国の行政官に任じられます(2:1-)。彼らの姿を通して、その地で聖書は地の塩、世の光として生きよと伝えているのだと思います。その地域に馴染みすぎて塩気を失うのではなく、その地域が持ち合わせていないものを差し出し、本当に必要な言葉を語り、良き光で照らせと。 今日は、ドラの平野に金の像が建てられたときの奉献式の場面です。楽の音が響くとき、この像を拝むという式典でした。全ての高官たちが集められました。その中にシャドラク、メシャク、アベド・ネゴもいます。国際国家となったバビロニア帝国の国家統一方法は宗教による統一でした。同じ像を拝む。違反者は燃える炉の中に投げ込まれるという罰則が伴うものでした。そして、3人はそれを拒むのです。王は言います。「もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出...

蜜のように甘い言葉 小松美樹伝道師 エゼキエル書3章1-11節

説教要旨 2月16日 録音 「蜜のように甘い言葉」 小松美樹伝道師 エゼキエル書3章1-11節  エゼキエル書はイスラエルの民の危機に、悔い改めと将来への希望を告げる書です。その特徴は幻の多さです。1章は他の預言者には見られないほどの圧倒的な神の顕現があります。代表的な37章「枯れた骨の谷」の幻や、40章からの「新しい神殿の幻」が思い浮かぶ方があるかもしれません。  預言者の「エゼキエル」という人物がいます。その名は「神は強める」という意味です。彼はエルサレム神殿の祭司の家系でした(1:3)。第一回捕囚期に(前597年)ヨヤキン王とバビロニアに連れて行かれ、捕囚の地で5年暮らしたその時に、預言者としての召命を受けました。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。…それは蜜のように甘かった。』(3:1−3)このように始まりました。食べよと言われているのは、巻物です。つまり聖書で、しかもそれは『哀歌と、うめきと、嘆きの言葉』(2:10)でした。それを食べなさいと、主の手が差し伸べて来たのです。  「御言葉を食べる」とは、よく噛み締めて、味わって、それを糧に生きよう。そう言うことだと思います。けれども、その決意も、お腹に入ってしまった途端に、目の前から消えると、忘れてしまうことは多くの人が思い当たることだと思います。  み言葉を食べるという生活を実践することはなかなか難しいと思います。 聖書を毎日読んだり、聖書を書き写しているという方もおられます。 何をやっても続かない私にとって、そうゆう習慣を続けておられる方々には、頭が下がります。なぜなら、何もせずに、御言葉が生活の中に伴うことは難しいと思うからです。祈ることも、私たちに聖書の言葉を思い出させてくれる。力づけてくれる。主の忍耐を思い起こして、何事にも思慮深くさせてくれることと思います。  エゼキエルは度々異常な行動を示したと言われ、(巻物を食べたり(3:1−3)、自分の体を縄で縛り、長期間横になった(4:8)他。)それは精神的な病にあったのだという見解があります。預言者が神の託宣を受ける時、多かれ少なかれ、幻視・幻聴など異常な状態に陥りました。巻物を食べ、しかもそれを甘いのだと言うのです。異常に見えたことでしょう。けれども、やはり主の召命を受けた者たちは変わっているのだと思います。それはいつの時代も同じで、今の私たちも...

預言者エレミヤ 石丸泰信牧師 エレミヤ書1章4-10節

説教要旨 2月9日 録音 「預言者エレミヤ」 石丸泰信牧師 エレミヤ書1章4-10節  エレミヤの召命です。召命はCallingとも言われます。電話のコールです。誰かが・・・神が呼んでいる。元々は司祭、修道士の務めに対して使われていました。しかし、宗教改革を経て一般の仕事に就くときもCallingという言葉は使われるようになります。そうすると仕事の意味合いが変わってきます。辞典を引けば「暮らしを立てるもの」が仕事の一般的な意味です。しかし、働くとは神の召しだと知っている人は、仕事とは、与えられた使命を果たすことだ、その為に呼ばれたということになります。しかし、それは職業に限定されないと思います。アブラハムが神のコーリングを自覚したのは75歳の時です。「行く先も知らぬまま、命じるところへ行け」。行く先も知らぬままというのは、その後の将来を神に任せて、ということです。しかし、出て行くこと自体が彼の使命ではありません。「全ての人の祝福の源となること」これが彼に与えられた使命。しかし、その実りは主イエスの十字架の死と復活を通して結びます。つまり、アブラハムは自分の使命の実りを見ないまま生涯を終えたのです。召しを受けたからといって、自分の人生に確信をもって生きられるというものではありません。何度も、これでいいのだろうか、と悩み、祈りながら生きる姿がアブラハムにもエレミヤにもあります。  皆さんは選ばれたという感覚はありますでしょうか。それはなくて良いのだと思います。信仰生活は感じる生活ではなく、信じる生活です。選ばれていると自分が感じようと感じまいと神の召しの中におかれて今がある。それを信じて良いということです。何か理由があって、今、ここに呼び出されているのなら、ここで私のすべきこと(使命)とは何かという視点で、すべてのものを見るということです。そうであれば、あの頼まれ事は神の召し。この頼まれ事は違うというものではなくて、もっと全体的なことなのだと思います。主なる神は「わたしはあなたを母の胎に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し・・・」と言います。エレミヤは知らなかっただけで、彼の生涯は、まず神の選びから始まっていました。  神の選びではなく、一つひとつ自分で選んだ結果が今なのだという方もあるかもしれません。けれども、それではどうしてキリ...

人間の恐れ 石丸泰信牧師 イザヤ書6章1-8節

説教要旨 2月2日 録音 「人間の恐れ」 石丸泰信牧師 イザヤ書6章1-8節 預言者イザヤの召命の場面。これはイザヤの証です。その出来事は礼拝の場で起こりました。聖書は「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」という賛美が響いたと言います。この時、イザヤは神殿で、今で言えば、教会で独り座っていたのかも知れません。すると突然、神の御座、セラフィム(天使)たちが現れ、神の礼拝が始まった。これはわたし達が捧げている目に見えない神への礼拝の本当の姿です。イザヤは、その幻を見たのです。しかし、そのとき、イザヤは喜べませんでした。「災いだ。わたしは滅ぼされる」。彼は恐れました。どうしてか。  これは「ウジヤ王が死んだ年のことである」と言われています。しかし、1章1節を見ると、ウジヤ王が在位しているときからイザヤは預言者として活躍していたようです。ウジヤ王は善王として知られていますが、その晩年は、思い上がり堕落し、主に背いて生きていたことが記されています(歴代26章)。1-5章を読むと当時の様子がわかります。偶像礼拝、横暴がありました。人々は形だけの礼拝をしていました。この頃、イザヤは預言者としてユダの国に対して嘆き、怒り、裁きの言葉を告げていたのです。  どうして今になって(6章で)イザヤへの神の召しがあるのでしょう。それは、まさにこの時、神はイザヤの前に現れなければならなかったからです。時に、人は信仰生活に熱心になると同時に、熱心に人を裁くようになることがあります。その時の心には「自分は正しい」という自己肯定があります。あの人は間違っている。わたしは違うという意識が人を裁く。神はご自身をはっきり現されることによって、イザヤに、そのことを気がつかせるのです。わたし達は誰でも、少なくとも自分は正しい生き方をしていると思って生きています。だからこそ、主張がぶつかり、言い争いが起こります。しかし、人ではなく、神の前に立つとき、自分の正しさを誇ることはできなくなるのです。 神に対する「恐れ」はどこから来るのか。それは創世記3章にまで遡ります。アダムとエバ。彼らが神に背いたとき、初めて「恐れ」という言葉が出てきます。主なる神が近づき、アダムを呼ばれると、彼は「あなたの足音が園の中から聞こえたので恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と応えました。裸だから。つまり、ありのままの姿で神に...

メリットもないのに、人は愛するでしょうか 石丸泰信牧師 ヨブ記1章9-22節

説教要旨 1月26日 録音 「メリットもないのに、人は愛するでしょうか」 石丸泰信牧師 ヨブ記1章9-22節 「ヨブは利益もないのに神を敬うでしょうか」。どうでしょうか。適当にごまかしてはいけない言葉だと思います。なぜなら、これはサタンの問いだからです。対してヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸で帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と応えました。ある人は、これを「これ以上の信仰の言葉はない」と言います。ヨブが、理由なしに神が与え、また奪うことのその全てに感謝し、信頼を示した、しかも、葛藤のただ中で示したからです。 サタンにとって驚きの言葉であったと思います。しかし、サタンには確信がありました。「信仰には本音があるはずだ」。危害のないところでは綺麗事を言えても、少し揺さぶってみれば、すぐに本音が見えるだろう。2章になるとサタンはヨブに本音を吐かせるには、財産と子どもを奪うだけでは足りないと思い、より深刻な打撃を開始します。その結果、ヨブは全身が腫瘍に覆われ、皮膚は崩れ落ちていきました。皮膚の破れは、当時、穢れであり、神に処罰された呪いの象徴でした。しかし、彼は言います。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」。これは神への短い賛美の言葉です。この日、この言葉が天地に響き渡るとサタンはもう黙ってしまいました。 サタンが確信していた人の本音とは信仰の対価としての幸福の追求です。人は不幸を避けるために神を信じているのだろう。これがサタンの確信です。時に、聞くことがあると思います。そんなことをしたら罰が当たるとか、どうして神を信じているのに悪いことが起こるのか、とか。そこには神を信じていたら幸せになれるはずという、因果応報の思いがあるのでしょう。 スヌーピー(ピーナッツ)というマンガの作者、チャールズ・シュルツは「人は自分の信じていることを信じているんだ」と言います。ライナスという男の子がサンタクロース宛の手紙を出そうとすると、女の子のルーシーは「欲深いわね。何通目?」と聞きます。彼は答えます。「欲深いわけではないよ。当然の報酬なんだ。ぼくが良い子だったら借りができるんだよ」。「サンタは、あなたに借りなんてないわよ」とルーシー。可愛らしい話ですが、サンタを神に言い換えたら、多くのキリスト者が神さまに対して取る態度に似てい...

あの経験は、この時のためだったのかもしれない 小松美樹伝道師 エステル記4章4-16節

説教要旨 1月19日 録音 「あの経験は、この時のためだったのかもしれない」 小松美樹伝道師 エステル記4章4-16節 エステル記はエステルというユダヤ人女性の物語です。ペルシャのクセルクセス王の妃に選ばれ、同胞のユダヤ人たちの危機に際し、エステルと養父モルデカイが知恵と勇気と信仰をもって彼らを救う出来事が描かれています。  モルデカイという人物は、ユダヤ人の捕囚の民の子孫でした。彼は「どの民族のものとも異なる独自の法律を有し、王の法律には従いません」(3:8)でした。そのことに、王の大臣ハマンから嫌厭され、モルデカイだけではなくユダヤ人を皆滅ぼす計画が立てられました。その事実を知ったモルデカイは、それを阻止できるのは、あなただけだとエステルに伝え、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」と伝えます。この言葉がエステルにとっての転換点となり、変わって行きます。自分に与えられているこの状況を使命として受け止めたのだと思います。それまでのエステルは、モルデカイに言われたことだけを守り、動いてきました。しかし、この使命を受け止めた時、自ら動き出しました。エステルはモルデカイに「私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。」と言います。つまり断食して三日間執り成しの祈りをして欲しいと求めました。どうしたら良いのか、その歩むべき道を問うために、神のご意思を見逃さずに聴き取る為に祈らずにはいられなかったのでしょう。エステルが置かれているのは、何か強いられる状況であり、せっかく持っているものを手放すことであり、せっかく受かったものを辞退することや、安全な生活を捨てるようなことでもあります。大きな決断で、それは祈らなければ歩めないのです。王妃に選ばれたことは、予期していたことではありませんでした。しかし、この時のために、神は自分を王妃にしたのだと、歩み出せたのはエステルの欠けや弱さを埋める、神への信頼があったからです。エステルは神への信頼だけを持って王の前に出ることができましたし、モルデカイは神に従っているからこそ、自分の務めをしっかりと果たせたのだと思います。  「この時のために」という状況や神からの使命というのは、私たちの身近な生活の中にも見出すことができるのだと思います。またそれは、本人が願ってい...

主を喜び祝うことこそ力の源 石丸泰信牧師 ネヘミヤ記8章1-12節

説教要旨 1月12日 録音 「主を喜び祝うことこそ力の源」石丸泰信牧師 ネヘミヤ記8章1-12節 大勢の人が広場に集まっています。 「男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達したものは皆いた」 といいます。そして 「祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た」 、 「夜明けから正午までそれを読み上げた」 と言います。これは長い礼拝の始まりでした。礼拝とは何か。第一には「神と出会う場所」です。第二に、礼拝は「隣人と出会う場所」です。礼拝のプログラムは、一人ひとりがバラバラに動きません。 「一人の人のように」 なって、一緒に祈り、歌い、共に聞きます。礼拝に孤独はありません。神の民が大勢いることを発見する場所です。また、執り成しの祈りにおいて、今まで意識したこともない人々と出会う場所です。第三に「自分自身と出会う場所」です。自分を知る。それは独り、瞑想すれば、わかるというものではない。神との出会い、隣人との出会いを通して、初めて自分に出会います。そして、それに加えて嘆きや涙が起こると、今日、聖書は言います。礼拝は嘆きが起こる場所。同時に 「嘆いたり、泣いたりしてはならない」 と言われる場所です。 「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた」 と言います。久しぶりの礼拝、あるいは、初めての礼拝であったからです。紀元前587年、イスラエル王国は戦争に負け、捕虜となって敵国に連れて行かれました。バビロン捕囚です。後、およそ50年経って、当時の帝国の王・キュロスは帰国命令を出します。段階的に帰還しました。その内の第二陣に祭司エズラがいました。続く第三陣にネヘミヤ。もう捕囚から70年が経っていました。おそらく帰還してきた人のほとんどがバビロニア生まれです。もちろん、バビロニアで暮らしていても、自分たちが神の民であるというアイデンティティを持っていたと思います。帰る場所があること、聞くべき言葉があること。いつも忘れていなかったと思います。けれども、神の民と共に献げる初めての礼拝が今日だったのです。なぜ、泣いたのか。律法を聞いたとき、わかったのだと思います。神を知っていると思っていたが、神の思いは全然違うところにあったこと。自分自身のことを全然知らなかったこと。礼拝なしの信仰生活では、神と出会い、隣人と出会い、自分自身と出会うことはなかったのです。 主の弟子のペトロは、あるとき、主...

博士たちの礼拝 石丸泰信牧師 マタイによる福音書2章1-11節

説教要旨 1月5日 録音 聖餐礼拝(主日礼拝)「博士たちの礼拝」石丸泰信牧師 マタイによる福音書2章1-11節 星に導かれて、東方の博士たちがキリストを訪ねてやってきたという物語を読みました。よく知られている話だと思います。けれども、ある人は「これは驚かされることではないか」と言います。「占星術で生活をしていた人ではないか」と。東方、つまりバビロニアの占星術は古代世界に大きな影響を与えた運命信仰でした。人は誰でも、自分の運命に従って生きている。占星術の学者というのは、それを信じて疑わない人たちでした。その人たちがやってのは驚きだ、というわけです。一見、現代のわたし達には関係のない驚きのように聞こえます。しかし、パウロもこう言います。「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」(ガラテヤ4:10)。パウロは明らかに占星術によって人間の運勢・運命を判断しようとする人の本性を批判しています。ここで彼は、雑誌やテレビの運勢占いとか、日本の暦の風習に従うことを批判しているのではありません。運命論です。「キリストを信じていると言いながら、運命論に心が支配されているのだとすれば、自分の苦労は無駄。いや、自分はどうでも良い。あなたたちが心配です」。  誰もが、自分の運命、つまり自分の将来が定まっているのであれば知りたいと思うと思います。自分の人生がどこへ向かうのかわからない不安があるからです。ところが、占星術は、星が定められた通りの動きをしているのと同様に、あなたの将来も定まっているのだと教えてくれるわけです。もちろん知るのが恐いという思いもあるかも知れない。けれども、たとえ目を見張る将来でなかったとしても、先に知ることができれば、受容し、備えることができる。これがわたしの人生さ、と諦めにも似た安堵を得ることができる。  バビロニアの占星術は、厳然として動かないように見える北極星を中心になり立っていました。しかし、運命や定めを否定するかのように、あるいは、人は変わり得るのだと言わんばかりに星が動き出したのです。占星術の常識は覆されました。そしてそのとき、学者たちは気がついたわけです。星が、世界のすべてを定めているのではなくて、動かないはずの星を動かす方がいるのだ。その発見...

言は肉となった 上竹裕子先生 ヨハネによる福音書1章14-18節

説教要旨 12月29日 録音 主日礼拝「言は肉となった」上竹裕子先生 ヨハネによる福音書1章14-18節 クリスマスの神秘を、ヨハネは次のように語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。神の言なるキリストが、「肉」をまとってこの地上に来られた、と。古来教会はこれを「受肉」という特別な言葉で伝えてきました。「肉」とは、特定の肌色、輪郭、重さを持つ、血の通った人間を意味します。 「受肉」はクリスマスに留まる出来事ではなく、主イエスが生涯にわたる歩みの中で実現されたものです。主はその言葉の通りに生き、そして死なれました。 あるとき、主は言われました。「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」(マタ5:43~44)と。不可能に思える言葉です。しかし、主は事実その最期に、十字架上で祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。主は自分を十字架につけた人々を愛することをやめませんでした。この一部始終を見ていた人は、こう告白せずにはいられませんでした。「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)。後に弟子たちも気づきました。「ああこの方こそ、人となった神の言なのだ」と。ヨハネはこのことを福音書に書き留めました。 わたしたちの歴史の中で、信仰者のモデルとされてきた多くのキリスト者がいます。その人々の生き方の手本を通して、聖書の鍵となる言葉に光を当てることができると、カトリックの神学者ハンス・フォン・バルタザールは言いました。彼は、キリスト者たちの全生涯はしばしば、聖書の一つの節か一つの物語を生きたものとしてみることができると言います。 例えば、アメリカの公民権運動の指導者となった牧師、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、旧約の預言者アモスの言葉を説教しました。「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ」(アモ5:24)。彼は身をもってこの言葉に生きました。コルカタのスラム街で「死を待つ人々の家」をつくり、貧者の中の最貧者に仕えたマザー・テレサ。彼女は、あるとき主イエスの声を聞きました。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタ25:31~46)。マザーは、その生涯を「最も小さい者の一人」と共に歩み続けることにささげました。 歴史の...

喜びの知らせ 石丸泰信牧師 ルカによる福音書2章1-20節

説教要旨 12月22日 録音 クリスマス礼拝(主日礼拝、聖餐式)「喜びの知らせ」石丸泰信牧師 ルカによる福音書2章1-20節 大切な知らせを真っ先に誰に伝えるでしょうか。それは共に喜び、悲しんでくれる愛する者に伝えるのだと思います。神にとってイエス・キリストの誕生は、わが子の誕生でありました。その重大ニュースをいったい誰に最初に伝えるか。それは祭司でも、律法学者でも、王でもなく、「羊飼い」でした。 羊飼いと聞くと、頼もしい指導者というイメージがあるもしれません。モーセもダビデも羊飼いでした。しかし、当時のイスラエルの羊飼いは違いました。羊は自分の所有ではなく、主人から預かって世話をしていました。休みもなく、安息日も守れない。周りからも蔑まされる生き方でした。彼ら自身、もう自分たちは神には見放されていると思っていたと思います。その彼らに天使を送り、真っ先に知らせたというのは、紛れもなく神の私たちに対する愛のメッセージだと思います。 そして、その喜びの知らせは、今度はマリアのところに届けられます。彼女もまた、喜びの知らせを必要としていた人でした。彼女がベツレヘムに来ていたのは自分の意思ではありません。皇帝が勅令を出したからです。「ナザレ」から「ベツレヘム」まで160キロほど。臨月の女性が移動する距離ではありません。けれども、そうはいきませんでした。ナザレは小さな町。結婚前に身ごもったという噂はすぐに広まっていきます。独り残されたらどんな目に遭わされるか。ヨセフは置いていけませんでした。「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」といいます。当時の家の間取りはワンルームだったそうです。そこは客間としても使われましたが出産をする部屋はなかった。当時の環境に流されるように飼い葉桶に来たのです。マリアは、ある意味では当たり前の風景の中にいました。自分の願いや意志とは関係なく、何かが起これば、それまでの生活を変えなくてはならない。それは私たちにも起こり得ることです。それがこの世に生きるということだからです。  マリアの下に天使が来たのは1年前です(1:26-)。それから特別なことは起こりませんでした。神の子を宿したが故に、勅令から免れたり、宿にキャンセルが出て泊まれるようになった。そんなことは起こらない。起こるべくして起こることがマリアにも起こっただけの日々でした。マリア...

幸せな家族? 小松美樹 伝道師 マタイによる福音書1章18-25節

説教要旨 12月15日 録音 「幸せな家族?」 小松美樹 伝道師 マタイによる福音書1章18-25節 第3のアドヴェントを迎えました。マタイが伝えるイエス・キリストの誕生は、イザヤの預言の成就として描かれています。「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」とは、旧約聖書に書かれていることの成就を言っています。それは「聖霊によって」起きたのです。使徒信条の「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」と告白しているのは、この聖霊によって起きた出来事です。    クリスマスの知らせは、夫婦になろうとする二人に受け入れがたい衝撃としてやってきました。婚約中のマリアが身ごもり、夫のヨセフは「正しい人であったのでマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。婚約をしているということは、公になっていて、親戚や村の人たちがすでに知っていることになり、ヨセフの、密かに縁を切るということはできるものでは無かっただろうと言われます。  ヨセフに「あの預言にある、救い主が生まれる」と告げたであろうマリアの言葉よりも、結婚前に妊娠したという事が大きな問題として目の前にありました。ヨセフはマリアの妊娠を受けて「ひそかに縁を切ろうと決心した」。しかし、決心しながらも迷いがあり思い巡らす日々でした。最悪の事態でありながら、マリアのその不可解な言葉に迷い、眠れない思いを抱えていたかもしれません。迷いの中にあるヨセフに天使が現れ、事の背後に聖霊が導いておられることが知らされました。  ヨセフは正しい人であり、誠実であるからこそ、縁を切ること、表ざたにしないことを決めたのでしょう。しかしそれではヨセフは律法に正しくはありません。聖書の言う「正しい人」は律法に正しい人のことです。そうであるなら、結婚前のマリアの妊娠というのは、石打ちの刑に処せられる(申命記22:23)あるいは、離縁状を書いて家を去らせることができます(申命記24:1)。 しかし、そうはしない所にヨセフの人柄が見えます。ヨセフの決心は周りからは認められるものだったかもしれません。それでも迷っていたというのは、マリアへの愛のない正しさであるからだと思います。法に正しく裁こうとする時、愛を持って裁くことが出来ないのです。ヨセフは世の中の正しさではない方法が求められていました。律法に正しく...

静かなアドヴェント 石丸泰信牧師 ルカによる福音書1章57-66節

説教要旨 12月8日 録音 「静かなアドヴェント」 石丸泰信牧師 ルカによる福音書1章57-66節 第二アドベントを迎えました。アドベントの語源を辿るとアド(to)ベント(come)というラテン語の言葉でできています。一つの方向に何かが来る。つまり、神が人となって世に来られるのを待ち望む、期待感のある言葉です。そこからアドベンチャーという言葉もできました。冒険。未知との出会いです。未知との出会いというものが、どこか違う場所に行かなければ起らないというのであれば、行きたい人だけ行けば良い。しかし、原意は、ここに、何かが起こってくる。思いがけないことが自分の目の前に現れる。そういう意味の動詞です。そうであれば、誰にでも起こりうるし、その時のために、受け止める勇気と信頼する心が思いが求められるものだと思います。なぜか。新しい出来事として何かが起るというのは、良いことばかりではないからです。むしろ、大変なことが多い。新しい命があれば、別れがあります。痛みややめることなどもそうです。そういう意味でいえば、この一年も、いくつものアドベンチャーに巻き込まれたのではないかと思います。 しかし、教会は必ずしも良いことばかりが来るわけではないのに、それを思い起こす季節としてアドベントを大切にしてきました。その理由は、私たちにとって不測の事態であっても、そこに神の手が働いているという信頼があるからです。その出来事の渦中では、神の手が働いているなんて信じられないかもしれない。けれども、落ち着いて振り返って見ると、それが分かるかもしれません。そのために毎年、この季節があるのだと思います。今日の箇所の最後と「この子には主の力が及んでいたのである」という言葉は、他の訳では「主の御手が彼と共にあったからである」となっています。このザカリアの出来事には大変なことがあった。しかし、その背後には主の御手があったのだとルカは受け止めているのです。 洗礼者ヨハネの誕生までは大変な出来事が続きました。ザカリアには天使の予告がありました。それにしても天使の予告というのは不思議だと思います。天使ガブリエルはマリアにも予告をしています(1:26-)。「あなたは身ごもって男の子産む・・・神にできないことは何一つない」。マリアは結婚していないのに男の子を身ごもる。ザカリアの妻エリサベトも、もう子を産む年齢ではないのに男...

マリアの困惑と決心 石丸泰信牧師 ルカによる福音書1章26-38節

説教要旨 12月1日 録音 「マリアの困惑と決心」 石丸泰信牧師 ルカによる福音書1章26-38節 アドベントを迎えました。教会の暦では新しい一年の始まりです。しかし、今の季節はむしろ、この1年を振り返ることの方が多いのではないかと思います。キリスト者の歴史の見方は2つあります。一つは直線的。今年は主の時2019年。来年は2020年という様に戻ることのない歴史。いわば、救済史です。しかし、教会の暦は円環的です。今年迎えたアドベントは去年にもありました。この二つの時の中を生きることが大事なのだと思います。マルコ福音書は独特な終わり方をしています。主イエスの「ガリラヤで会おう」という言葉で終わる。ガリラヤは最初に弟子たちが主に出会った場所です。つまり、読み終わると、もう一度そこに戻って読み返すことを求めているのです。何度も読むとき、最初には分からなかった主の言葉が深く理解できるかも知れません。それと同じように、新しい直線的な1年を経験して、再び、アドベンを迎えることは、今の自分を深く知ることに繋がっていくのだと思います。 ルカ福音書の始まり方も独特です。最初を読むとテオフィロという人物に宛てた手紙だということが分かります。想像してみてください。ある日、手紙が届いて、開いてみると、今日の聖書の言葉が書いてある。このアドベントの時期に、そういう手紙が届いた理由は何だろうかと思います。 マリアは天使に「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言われ、出産を予告されます。マリアには婚約者がいました。それなのに、夫ではない子どもを宿すと言われる。とても、喜べなかったと思います。ユダヤは小さな町でした。待っているのは人々からの軽蔑の視線です。けれども、彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と受け入れました。どうしてこう言えたのか。もちろん、マリアが小さな頃から聞いてきた旧約の預言。その成就に自分が選ばれたのだと受けとめた。そう考えることも出来ます。しかし、本当は、震えながら、そう答えたことをもう後悔していたのではないかと思います。なぜなら、マリアは、このあと、急いで「親類のエリサベト」の家に行くからです。同じ天使の受胎告知を受けた女性。マリアにとって唯一の理解者と思ったのでしょう。彼女はそこで3ヶ月の間、滞在したと言います(1:56)。別...

聖書の発見 石丸泰信牧師 列王記下23章1-7節

説教要旨 11月24日 録音 主日礼拝「聖書の発見」 石丸泰信牧師 列王記下23章1-7節 神殿で聖書を発見した時の話を聞きました。神殿のリフォーム工事をしている時、律法の書を見つけます。当時の王ヨシヤは人々を集めて読み聞かせ、そして衣を裂いて泣きました。今の神殿が聖書と全然違う姿になっていたからです。彼はバアル、アシュラの像を片付け、街に建てられていた、天体などに祈りを捧げる場所・聖なる高台を撤去しました。そして主の契約の言葉を実行することを誓いました。この時の様子は、教会の礼拝堂から十字架を取り外して、他の像を飾っていたようなものです。聖書を片付け、礼拝も廃止されていた。わたしたちも水害の際、ずっと開けていなかった納戸を整理して、懐かしいものが沢山、出てきました。ヨシヤ王たちも、どういう経緯でのリフォーム工事かは分かりませんが、納戸や屋根裏から律法の書・聖書が出てきたわけです。そして、今の状態に心を痛め、一斉に元に戻した。ヨシヤの宗教改革の始まりです。 どうして宗教改革が必要なのでしょう。自分ではちゃんとやっているつもりでも、いつの間にか違うことをしてしまっていることがあるからだと思います。聖書には「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです」(テトス1:16)。という言葉があります。神を信じていると言いつつ、気が付いたら神を悲しませることばかり行っている。 最近、蛙のことを聞きました。蛙は動いているものしか見えないそうです。目の前に餌になる虫がいても、動かないかぎり見えない。動いた途端、見えるようになり飛びつくのだそうです。わたしたちも、そういうところがあるのだと思います。本来、不思議な事も、だって普通でしょという言葉によって疑問すら持たなくなります。本当は考えないといけないことも風景のようになって見えなくなってしまう。聖書の言葉もそうです。いつの間にか風景の中に綺麗に溶け込んで、消えていってしまう。自分はキリスト者ですと公言しながら、聖書の言葉は納戸にしまってしまうんです。 神学校でもそうでした。わたしが寮長を担っているとき、寮のトースターが無くなりました。会議を開き、様々な意見が出ましたが、犯人捜しを辞めることは出来ませんでした。けれども、Ⅰコリントの手紙の言葉に出会います。「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなた...