二人のイエス 石丸泰信牧師 マタイによる福音書27章15-26節

説教要旨 3月29日 録音


「二人のイエス」 石丸泰信牧師

マタイによる福音書27章15-26節

主イエスの裁判の場面です人々は妬みのために主イエスを裁判に引き渡しました。裁判官である総督ピラトは騒動が起こるのを恐れ、十字架刑を決めました。誰の目にも、おかしな裁判です。しかし、主は黙っていました。きっと言いたいことはたくさんありましたしかし、主は口を開きませんでした。なぜか。赦すというのは沈黙することだからだと思います。もしも、ここで主イエスが言い返し、彼らを告発したとしたら誰ひとり救われることはないのです。

この箇所を読むと腹を立てる人は多いかも知れません。わたし達であれば、この人々のことも、ピラトのことも許さないと思うかもしれない。けれども、主は沈黙の中に赦そうとされます。なぜか。この人たちが赦されないのならば、わたし達も赦されないからです。妬ましい人がいても、一人のときは悪口を言わないかもしれない。けれども、数人集まると、人の悪口が楽しくてやめられなくなります。その陰口が、その人を死に至らしめるだなんて考えずに。ピラトもそうです。彼は聖書を読む限り、善良な人間です。人々の言葉にも、妻の言葉にも耳を傾ける善良な総督。しかし、過ちを犯すのです。ここに出てくる人たちは、わたし達となんら変わらない。

使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白します。ある人は、「これはピラト、あなたの問題だ。わたしには責任がない」と言える人がいるだろうかと言います。「わたしのもとに苦しみを受け」と告白できて初めて、本当の信仰告白になるのではないか、と。

沈黙の中に赦されることは、わたしも日々、経験しています。牧師室になぜか置いてあるタイヤ。週報のミス。散らかりっぱなしの書類。もしも告発されていたら、もうとっくに追い出されています。沈黙の中に守られ、赦され、今があります。

聖書は「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と言います(ヤコブ1:19)。テレビを見ても、すぐ政治家たちにものを言いたくなります。自分の正義を振りかざしたくなる。しかし、赦し、受け入れるのは「話すのに遅く」、黙ってみることから始まります。

その結果、許されて釈放されたのは「バラバ」という人物でした。彼は他の福音書では「強盗」とも「人殺し」とも紹介されています。いずれにしても「評判の囚人」でした。そしてマタイ福音書だけが名前を記しています。「バラバ・イエス」。彼の名はイエス。バラバは称号です。直訳すれば「父の子」。「あの父親の息子」というニュアンスです。彼は、そう呼ばれて生きていました。そして、いずれにしても彼は祭りの恩赦に選ばれ、生き延びました。当時、強盗も殺人も死罪にあたるという判断は妥当なものでした。バラバにとって、この恩赦はありがたいこと、あり得ないことでした。彼には救われる理由が何もなかったからです。ですので、当時のキリスト者は、このバラバこそ主イエスの十字架による身代わりの死によって救われた最初の人と考えました。そして、多くの人が、バラバのその後が気になったのです。彼は、もう聖書には登場しません。彼はその後、どうなったか。

スウェーデン人作家ペール・ファビラン・ラーゲルクヴィストの小説に『バラバ』があります。その後のバラバを描いた作品です。テーマは信仰と迷いだそうです。どんな、その後の人生を想像するでしょうか。わたしが読んだときの感想は、つまらない、がっかりした、というものでした。なぜか。彼は何者にもならないからです。彼は救われたのです。そうであれば、生き方がガラッと変わっても良い。しかし、彼は根本的にずっとバラバなのです。ザアカイは変わりました。主の十字架を担いだキレネ人のシモンも、その後の伝説で司祭になったと言われています。皆、生き方が変わったのです。しかし、バラバは変わらない。読んでいてイライラします。けれども、苛立ちの根が分かりました。ここに描かれているバラバは、わたしみたいな者なのです。主に救われた後、昨日までは文句ばかりの人生であったのに、急に人の悪口を言わなくなるとか、聞くに早く、怒るに遅くなったとかは全然ない、どこにでもいる普通のキリスト者のことが、ここには描かれている。だから、がっかりする。しかし、バラバのその後の姿というのは、全てのキリスト者の姿そのものなのだと思います。


もちろん『バラバ』の小説はフィクションですが、この裁判の場面には教会が伝えてきた大切なことが端的に描かれています。赦しには2つのタイプがあります。1つ目は条件を満たすこと。謝る、反省する、同じことをもうしない、生き方がガラッと変わるという条件を満たすから赦す。2つ目は条件なしの赦しです。1つ目は、その人の行動の「故に」赦しは与えられますが、2つ目の方は、その人の過ち「にもかかわらず」です。同じ過ちを繰り返し、生き方も変わらないにもかかわらず、神はわたし達を受け入れてくれています。