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10月, 2018の投稿を表示しています

川下に向かって 濱田真喜人牧師 Ⅰテサロニケの手紙5章16-22節

説教要旨 10月28日 録音 特別礼拝(主日礼拝) 「川下に向かって」 濱田真喜人牧師 Ⅰテサロニケの手紙5章16-22節 1.神の意志  美空ひばりさんの曲に『川の流れのように』があります。この曲の中で一か所だけ二回歌われている箇所があります。 「ああ 川の流れのように おだやかに この身をまかせていたい」  いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝するためには、「神の意志」にこの身をまかせます。川の流れに身をまかせるのです。 「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(5:18)  原文を直訳すると、「これが神の意志である」となります。喜び、祈り、感謝することを、神さまは私たちに「要求」しているだけではありません。「意志」しておられるのです。つまり、そうすることに「決めている」のです。  私たちを、その全生涯を通して、喜び、感謝し、祈る者になるよう育んでいく、そう決めているのです。 2.川の成り立ち  それでは、「神の意志」としての大きな川が、「どのような川であるか」見ていきましょう。  川上には私たちの信仰の源泉があります。 「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(5:10)  「かつて」主イエスはわたしたちのために死なれた、それが私たちの救いです。そして「今」、目覚めていても、眠っていても、共に生きてくださっています。  川下に私たちは「再臨のキリスト」を見ます。 「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。」(4:16)  上流にはキリストの死を、下流の彼方にはキリストの再臨を、今浮かんでいるところは、共に生きてくださるキリストを見ます。このような川の流れに身をまかせるのです。 3.船を下流に押す仕組み  それでは次に、神の意志としての川が、どのような「仕組み」で船を下流へ運ぶかを見ていきましょう。 「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」(5:19)  預言とは「説教」のことです。説教はキリストの死と、臨在と、再臨を語ります。川の成り立ちを語るのです。この説教の言葉を通して、臨在のキリストは、私たちに霊の火を灯し続けてくださるのです。闇の中

神の呼び出し 石丸泰信牧師 使徒言行録16章6-10節

説教要旨 10月21日 録音 創立記念礼拝(主日礼拝) 「神の呼び出し」 石丸泰信牧師 使徒言行録16章6-10節  向河原教会は、この10月より伝道開始68年目の歩みを始めます。「なんとかしてキリストの教えをこの子どもたちの心に刻み込んでいきたい」というある夫妻の祈りによって、武藤富男師による聖書研究会が始められました。教会の記念誌はこの出来事を、使徒言行録16章の物語になぞらえて次のように伝えています。「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けてください」と幻の中で語りかけられたパウロが、神からの招きと確信してただちにマケドニヤに渡ったように、この夫妻に聖霊の導きが臨み、ひとつの尊い幻が主より与えられた、と。  使徒言行録は、使徒たちの言葉や業の記録のように見えますが、その中心にはいつも歴史を導かれる神の御手があります。今日の箇所の直前には、パウロとバルナバの喧嘩別れが記されています(15:36-)。未熟なマルコを同行させるか否かで意見が対立し、彼らは別々の道を行くことになるのですが、聖書はどちらが正しかったかとは言わず、この出来事から何が生み出されていったのかを伝えています。二人の衝突の結果、二つの宣教旅行が同時に展開されることになります。マルコを連れたバルナバの入った町は既に教会があり、まったくの開拓地に比べ、安心して宣教に専心できました。未熟だったマルコもこの町で成長し、後にパウロにとってなくてはならない存在となりました(Ⅱテモテ4:11)。人の目に失敗に映ることも、神の御手の中にあるのです。  今日の箇所には、パウロが計画を二度も変更せざるを得なかったことが記されています。第一に「アジア州」で宣教するつもりだった計画が頓挫します。聖書は、その理由について「聖霊から禁じられた」としか言いません。パウロたちは、当初の計画を変更し「ビティニア州に入ろうとし」ますが、再び妨げられます。理由は「イエスの霊がそれを許さなかった」からとあります。二度も神によって扉が閉ざされます。しかし、彼らは「せっかく準備したのに」ではなく、「神は我々をどこに進ませようとしているのだろうか」と考えます。だからこそ、パウロは、マケドニア人の夢を見て「ここだ」と確信したのです。彼らの計画は何度も覆されました。この御言葉が向河原教会の歴史の冒頭に引かれていることは興味深いことです。  19

将来から今を見る 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙7章25-40節

説教要旨 10月14日 録音 主日礼拝 「将来から今を見る」 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙7章25-40節  パウロはコリント教会の人たちの結婚に関する質問に答えるために、この章を書いています。彼は独身でいることを肯定的に語りながら、結婚に対しても「罪を犯すわけではない」とか、いずれの在り方も否定しません。煮え切らない答えに感じるかもしれません。結婚の質問に対し、パウロが繰り返し語ってきたのは「今のままでいなさい」ということです。パウロはその理由を「今危機が迫っている」から「定められた時は迫って」いるからと言います。キリストが再び来られる終わりの時が近いと信じていたからです。  終末切迫の意識が高まったこの時代、終末の到来に備えて、家族や日常生活を放棄する熱狂主義の運動が起こりました。しかしパウロは、終末が近いからこそ「現状に留まりなさい」と言いました。主イエスは言われました。「その日、その時は、だれも知らない。…父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(マルコ福音書13:32-33)。その時が分かるなら、重要なのは「その時」です。しかし、その時を知らないなら、重要なのは「今」で、今どう生きるのかが問われます。人は終わり(死)がいつ訪れるのか知りません。命は自分の手中にはないからです。わたしたちの歴史もわたしたちの手の中にはなく、終わりの時を知らされてはいません。それゆえ、わたしたちは終わりを意識して、今を生きるのです。  神の定められたその時には、すべてが清算されます。ある人は、レストランで好きなものを好きなだけ食べてよいが、必ず清算の時が来る。それは神の定めた終わりの時と同じだと言いました。支払いを考えず飲み食いすることはないのに、自分の生き方について清算の日を考えないでいることがいかに多いことかと思います。だからこそ、パウロは言うわけです。「定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように…すべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」。肩書きも名誉も「これがあれば安心」という絶対のものはありません。わたしたちの持ちものはすべて過ぎ去ります。パウロは、独身であることも結婚していることも相対的なことで、過ぎ去らないものに目を向けることが重要

荒れ野に響く声 小松美樹神学生(東京神学大学 大学院2年生) マルコによる福音書1章1-8節

説教要旨 10月7日 録音 神学校日礼拝 「荒れ野に響く声」 小松美樹神学生(東京神学大学 大学院2年生) マルコによる福音書1章1-8節  マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まります。本のタイトルのような始まりです。「福音の初め」は福音書全体にかかる言葉でありながら、1章のイエスが登場するまでの事柄でもあると見ることができます。続く2-3節は旧約聖書での約束の言葉が、今成就したとしてイエス・キリストの福音の初めを描いています。マタイやルカが書いようなクリスマス物語をマルコも知っていたかもしれません。しかし、キリストの到来という出来事の「アドヴェント(到来)」を聖書の言葉の成就を待望する形で描いています。「福音の初め」はタイトルであると共に、旧約聖書の引用、そして、その預言の通り、道を備える者として洗礼者ヨハネが登場する場面なのです。  2-3節はイザヤ書とマラキ書からの引用です。これらは「道」という言葉の繋がりがあります。両書物とも人々が「道」を見失っていた時代に書かれたものでした。その人たちに対して、道が拓かれるという約束の言葉です。 ここに引用されているマラキ書の言葉は、旧約の最後の言葉です(3:24)。マルコ福音書は、その言葉との繋がりをもって、イエス・キリストによる新しい契約の書、新約聖書を書き始めるのです。また、そのマラキ書には、主の日の前に預言者エリヤが遣わされることが告げられていました。 だからエリヤは再び現れると人々は信じていました。 だから、洗礼者ヨハネの姿は、聖書を読む者たちにとっては「あの預言者エリヤ」の姿とわかるのです。マルコは福音書の描き初めに、旧約から新約への橋渡しをしているのです。  洗礼者ヨハネは、預言の通り、先に遣わされて、準備を始めていました。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。それはまさに福音の宣教の初めの出来事です。  聖書で言われる罪は、神と人との関係の中でいいます。神が世界と人を造られました。その造り主と私たちとの特別な関係です。しかし、人は神ではなく、自分を中心に考えて、神との関係から外れ、自分の世界を築き上げて生きたいと願います。神を忘れること、神の言葉から離れていってしまうことに罪がありました。悔い改めることは「向きを変えて帰る」こ