川下に向かって 濱田真喜人牧師 Ⅰテサロニケの手紙5章16-22節

説教要旨 10月28日録音


特別礼拝(主日礼拝) 「川下に向かって」 濱田真喜人牧師


Ⅰテサロニケの手紙5章16-22節

1.神の意志
 美空ひばりさんの曲に『川の流れのように』があります。この曲の中で一か所だけ二回歌われている箇所があります。
「ああ 川の流れのように おだやかに この身をまかせていたい」
 いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝するためには、「神の意志」にこの身をまかせます。川の流れに身をまかせるのです。
「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(5:18)
 原文を直訳すると、「これが神の意志である」となります。喜び、祈り、感謝することを、神さまは私たちに「要求」しているだけではありません。「意志」しておられるのです。つまり、そうすることに「決めている」のです。
 私たちを、その全生涯を通して、喜び、感謝し、祈る者になるよう育んでいく、そう決めているのです。

2.川の成り立ち
 それでは、「神の意志」としての大きな川が、「どのような川であるか」見ていきましょう。
 川上には私たちの信仰の源泉があります。
「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(5:10)
 「かつて」主イエスはわたしたちのために死なれた、それが私たちの救いです。そして「今」、目覚めていても、眠っていても、共に生きてくださっています。
 川下に私たちは「再臨のキリスト」を見ます。
「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。」(4:16)
 上流にはキリストの死を、下流の彼方にはキリストの再臨を、今浮かんでいるところは、共に生きてくださるキリストを見ます。このような川の流れに身をまかせるのです。

3.船を下流に押す仕組み
 それでは次に、神の意志としての川が、どのような「仕組み」で船を下流へ運ぶかを見ていきましょう。
「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」(5:19)
 預言とは「説教」のことです。説教はキリストの死と、臨在と、再臨を語ります。川の成り立ちを語るのです。この説教の言葉を通して、臨在のキリストは、私たちに霊の火を灯し続けてくださるのです。闇の中を航海しなければならない時もあります。しかし、私たちはどんな死の陰の谷をも恐れません。主が御言葉によって、絶えず霊の火を灯してくださるからです。
 
4.変えられ続けて行く
 次に川の流れが、私たちをどのように変えていくのか、見ていきましょう。
「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」(5:21-22)
 説教を大切にすることが、「御言葉を聴く」ことであるならば、ここで言われていることは「御言葉を行うこと」です。主の御言葉によって川下に運ばれながら、御言葉を行う者にされて行くのです。これが川を下るに従って起こることです。
 そして、「良いものを大事にする」ということこそが、「常に喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」ことなのです。その日に向かって、川下に向かって、私たちは常に喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する者にされていくのです。もちろん、私たちも船を漕ぐのです。けれども、流れを忘れません。神の意志という大きな川の流れに身をまかせて、船を漕ぐのです。

5.おだやかに
 美空ひばりさんは、別に信仰のことを歌ってはいません。けれども、私は勝手に「川の流れのように」を讃美歌に解釈し直して聞いていました。
「ああ 川の流れのように おだやかに この身をまかせていたい」
 私たちは「神の意志」という川の流れに身をまかせるのです。その流れがキリストの再臨の日に向かって、私たちを常に喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する者へと変えていくのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
 イエス・キリストを通して、父なる神さまは、私たちをいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する者へと、育み育ててくださいます。だから、川の流れに、「おだやかに」、身をまかせるのです。