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召されたまま、呼び出されたまま 石丸泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 7章17-24節

説教要旨 9月30日 録音 召されたまま、呼び出されたまま 石丸泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 7章17-24節  7章は結婚のテーマを扱いますが、パウロが語るのは結婚の具体的な問題への対応ではなく、その根本にあるキリスト者の生き方の基本的な態度です。パウロは「召されたときのままでいなさい」という言葉を繰り返します(7:17,20,24)。神の召しに留まっていなさい。換言すれば、神に召されたあなた自身を受け入れなさいということです。「召された」とは、神に名を呼ばれたということです。神に名を呼ばれることは、洗礼と深く結びついています。洗礼式では、その人の名前が呼ばれます。洗礼について考えるとき、わたしたちはそのきっかけや自分の決心を問題にするかもしれません。しかし、聖書はあなたが神を選んだのではなく、神があなたを召したのだと言うのです。自分の決心もあります。しかし、まず神が呼ばれ、ついにあなたがそれに応えるのが洗礼の時です。キリスト者とは、自分が召された者であることを知る者です。  ベトナム戦争後、多くの孤児がでて、その幾人かが日本で養子とされました。日本人夫婦に迎えられたあるベトナムの少年は「お前の親は本当の親ではない」といじめを受けました。彼が泣いて帰ると母親は、自分たち夫婦が、子が与えられるように神に祈っていたこと、その時ベトナムの戦災孤児を知ったことを話しました。調べて、祈って、ベトナムに行った。多くの子らのいる施設であなたの名を呼んで、自分たちの子にしたと泣きながら話しました。これを聞いた少年は、ある確信の中に生きるようになったと言います。自分は選ばれ、名を呼ばれて、この父とこの母の子とされた。父母は祈り、決断して自分を子にしてくれた。それならば、これこそ本当の父、本当の母ではないか。その確信から、戦災孤児という事実もただの悲劇ではなく、感謝して受け入れることができました。  神が「お前はわたしの子」と呼ばれる声を確かに聞いたのなら「割礼の有無」や奴隷であるか否かは問題でなくなります。割礼は神に選ばれたユダヤ人のしるしでした。しかし、ユダヤ人か日本人かベトナム人かは問題ではなく、さらに既婚であることも未婚であることも、奴隷であることすら第一のことではないのです。「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」という言葉は、口語訳聖書では

結婚と神 石丸泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 7章8-16節

説教要旨 9月23日 録音 結婚と神 石丸泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 7章8-16節  パウロが「結婚」について語る今日の箇所は、当時の教会の文脈の中で書かれたもので、結婚の原則や一般論を語るものではありません。「未婚者(ここでは寡夫)とやもめ」には「独りでいるのがよい」。「既婚者」には「別れてはいけない」と語りかけますが、いずれも結婚を経験した人たちにそのままでいなさいとパウロは言います。聖書と同時代の書物から、独身主義の運動がもてはやされた当時の背景を知ることができます(例えば「ぱうろとテクラの行伝」)。パウロはその運動に巻き込まれて離婚すべきではないと語る一方で、再婚も否定しません。「身を焦がす」なら結婚しなさいと勧めます。これはただ「燃やす」というほどの言葉で、性的関係の乱れ(6章)を懸念してかもしれませんし、単に大切な人がいて「心が燃えるなら」という意味かもしれません。いずれにしても、パウロは何も禁じてはいないのです。  そして、パウロは主イエスが離婚について教えたこと(マルコ福音書10:1-)を念頭に語ります。「既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。」旧約聖書は離縁状を書いての離婚を許しますが(申命記24:1)、離縁状は夫が妻の所有者であった当時の社会において、離婚した女性が新しい人生を送るために必要な証明書でした。しかし、次第に離縁状を書きさえすれば自由に妻を捨てることができるという解釈に歪められました。料理がまずいとか妻よりも美しい人を見つけとかといった理由で離縁するということが起こっていました。主イエスは、離婚そのものを否定したのではなく、離縁状を渡して去らせるその風潮を非難しました。パウロも同様です。独身主義運動に巻き込まれるなどの理由での離縁に対しての非難です。  現代は離婚が当たり前の時代と言われます。しかし、ある人は「結婚の歴史と同じくらい離婚の歴史がある」と言います。離婚とは何かを問うことは、そもそも結婚とは何かを問うことと言えます。教会の結婚式は当事者2人だけなく、牧師と3人でもなく大勢の証人が列席します。その式の中心は証人たちの前での誓約です。聖書には神が結婚の証人だという言葉があります(マラキ書2:14)。誓約を裏切ることは、その証人である神を裏切ることでもある。結婚は単に好き

祝福してください -ヤコブの祈り- 石丸 泰信 牧師 創世記 48章15-16節

説教要旨 9月16日 録音 祝福してください -ヤコブの祈り- 石丸 泰信 牧師 創世記 48章15-16節  キリスト者にとって歳を重ねる幸いは、信仰生活を重ねる幸いです。歳を重ねると、体の不調や失うものが多いように感じるかもしれません。しかし、信仰者には最期まで奪われることのないものがあります。「祝福」を手渡す力です。今日、聖書は信仰者ヤコブの最期の姿を語ります。ヤコブが息を引き取る直前、子や孫たちを祝福する場面です。祝福の主体は賜物の与え主である神であり、神から祝福を受けた者が人を祝福することができます。聖書には「白髪の老人の前では起立しなさい」(レビ19:32)という言葉があります。高齢者を労りなさいということではなく、老人は祝福の担い手である点で、何よりも尊敬の対象なのです。  聖路加病院元医師の日野原重明さんは、いつも看護学部の新入生に「君たちは何歳まで生きたいですか」と聞いたそうです。大半の学生は「50代まで」と答えるそうです。平均寿命の「80歳以上」と答えるのは1人か2人だそうです。日野原さんは、人生は若いことにだけ価値があるのではなく、老いて円熟するという面があり、そのモデルを自らの生き方によって伝えることができると言います。禅宗の大家鈴木大拙さんは、若い秘書に言っていたそうです。「君、長生きはしたまえよ。90歳にならないとわからないことがあるからね」。それぞれに与えられた人生があるので、長寿だけが神の祝福だとは言えませんが、喜びも神の恵みも、歳を重ね、時間を掛けないとわからないことがあるというのはわかる気がします。  ヤコブは自らの生涯についてこう話します。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」(創世記47:9)。その後、ヤコブは147歳まで生きたと記されていますが、その一生は「苦しみ多く」という言葉そのものでした。災いや人間の策略に翻弄され、ヤコブの家族の物語は不和と諍いの連続です。しかし今、ヤコブは言います。「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」。他の翻訳では「神は、今日のこの日まで、わたしの羊飼いであられた」とあります。ヤコブは目に見えない方がずっと「わたしの羊飼いであられた」ことが、苦しみの年月を経て、今わかってきたのです。  スーザンという女

賜物としての人生 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 7章1-7節

説教要旨 9月9日 録音 賜物としての人生 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 7章1-7節  コリント教会の人たちの間で自由のはき違えが起こったとき、それは性的な事柄にも及びました。「自由だから何をしてもよい」と言う人があり、他方、「わたしたちの体は聖霊の宮だから性的な関係は一切だめ」と言う人もありました。夫婦間の体の関係を否定する人もあり、混乱が起こっていました。パウロはこれらの両極端な意見に対して答えます。「『そちらから書いてよこしたことについて言えば』、あなたがたは『男は女に触れない方がよい』と言っているけれども、それは非現実的だ」と。パウロは不品行を避ける為の議論から始め、そもそも夫婦とは、と続けて語ります。  「夫は妻に…同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も…」。ある人はパウロは当たり前の事を言わざるを得なかったと言います。確かにそうです。一人の男性が結婚して「夫」という名前に変わる。あるいは、子どもが生まれて「父」という名前に変わると、自分の体や時間は、もう自分一人のものではなくなります。家族のための体、家族のための時間になります。夫婦や家族とはそういうものです。言葉にはしなくとも誰もが当然としていることです。けれども、夫婦が互いに同権であり、相手に自分が果たすべき責任を負っているんだと思うと同時に、自分も相手に果たすべき責任を負っていると思い返すことが重要です。  神学者のマックス・ピカートは言いました。「結婚とは、一つの客観的事象である。結婚は夫によって、または妻によって造り出されるものではなく、逆に夫と妻が結婚によって造られる」と。だから「夫と妻は彼ら自身が欲するようにするのではなく、また、名付けられない何物かが欲するようにするのでもない。実は、結婚という客観的事象が望むように行動するのである」。結婚が神から与えられたものであることを信じるとき、夫婦のあり方は、自分たちの内側からわかるのではなく、神の思いを求めるときに初めて見えてきます。だからパウロは夫婦が別々に「専ら祈りに時を過ごす」ことを勧めるのです。結婚の形は「車の両輪」のようなものだと言う人がいます。前進するためには、それぞれ車輪の中心に空洞を持ち、そこに両者を結びつけるものが必要。つまり、自分た

代価を払って買い取られた体 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 6章12-20節

説教要旨 9月2日 録音 代価を払って買い取られた体 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 6章12-20節 「わたしには、すべてのことが許されている」。この言葉はコリント教会の人々のスローガンのようなものでした。それにパウロは付け加えます。「しかし、すべてのことが益になるわけではない」。今日の箇所は5章、6章前半のまとめの部分と言えます。パウロはここに、これまで取り上げた事件の根本を見ています。自分たちは自由で、何をしても良いのだという高ぶりです。 初代教会の会議の中で、救いは信仰に依るのか、行いに依るのかという議論があったことが記されています。一方の指導者たちは、キリスト者は律法を守るべきだと言い、他方、パウロは、信仰による救いと律法遵守の束縛からの自由を説きました。今日わたしたちの間で「信仰義認」は共通認識ですが、信じる者は救われる、信じれば必ず、ということは簡単なようで簡単ではないと思います。 カトリックの晴佐久神父に憧れ、会いに行った青年がいました。自分も司祭になりたいというこの青年に晴佐久神父は言いました。「あなたを司祭にするのは神だ。神が望めば必ずなれる。それを信じるか、信じればなれる」と。青年は神学校に進み、助祭(司祭見習い)となりました。ところが、あることをきっかけに司祭になるための推薦が受けられなくなります。しかし、彼は「信じればなれる」という言葉を忘れませんでした。司祭になれる見込みもないのに助祭として何年も働き続けました。その働きが評判となって司教の耳に入り、ついに司祭になることができたと言います。信じるということは信じていれば何もしなくても良いというのではない。神を信じ、すべきことを続けるということです。 信じていれば何をしていても良いのだと言って、自由をはき違えたコリント教会の人たちに対して、パウロは言います。「『すべてのことが許されている』。しかし、すべてのことが益になるわけではない」。自由というとき、心の状態や精神論を考えるかもしれません。しかし、パウロの語る自由は具体的で体に関わることです。何を食べてはいけない、この本を読んではいけない、どこに足を踏み入れてはいけない、そういった不自由を乗り越えたのがキリスト者です。 ただ、与えられた体の自由の使用目的を間違えてはならないのです。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり