賜物としての人生 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 7章1-7節

説教要旨 9月9日録音


賜物としての人生 石丸 泰信 牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙 7章1-7節
 コリント教会の人たちの間で自由のはき違えが起こったとき、それは性的な事柄にも及びました。「自由だから何をしてもよい」と言う人があり、他方、「わたしたちの体は聖霊の宮だから性的な関係は一切だめ」と言う人もありました。夫婦間の体の関係を否定する人もあり、混乱が起こっていました。パウロはこれらの両極端な意見に対して答えます。「『そちらから書いてよこしたことについて言えば』、あなたがたは『男は女に触れない方がよい』と言っているけれども、それは非現実的だ」と。パウロは不品行を避ける為の議論から始め、そもそも夫婦とは、と続けて語ります。
 「夫は妻に…同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も…」。ある人はパウロは当たり前の事を言わざるを得なかったと言います。確かにそうです。一人の男性が結婚して「夫」という名前に変わる。あるいは、子どもが生まれて「父」という名前に変わると、自分の体や時間は、もう自分一人のものではなくなります。家族のための体、家族のための時間になります。夫婦や家族とはそういうものです。言葉にはしなくとも誰もが当然としていることです。けれども、夫婦が互いに同権であり、相手に自分が果たすべき責任を負っているんだと思うと同時に、自分も相手に果たすべき責任を負っていると思い返すことが重要です。
 神学者のマックス・ピカートは言いました。「結婚とは、一つの客観的事象である。結婚は夫によって、または妻によって造り出されるものではなく、逆に夫と妻が結婚によって造られる」と。だから「夫と妻は彼ら自身が欲するようにするのではなく、また、名付けられない何物かが欲するようにするのでもない。実は、結婚という客観的事象が望むように行動するのである」。結婚が神から与えられたものであることを信じるとき、夫婦のあり方は、自分たちの内側からわかるのではなく、神の思いを求めるときに初めて見えてきます。だからパウロは夫婦が別々に「専ら祈りに時を過ごす」ことを勧めるのです。結婚の形は「車の両輪」のようなものだと言う人がいます。前進するためには、それぞれ車輪の中心に空洞を持ち、そこに両者を結びつけるものが必要。つまり、自分たちを絶対視せず、言葉を聞く場所、祈る場所を持つことが重要だということです。
 専ら何を祈るのか。祈りの言葉ではないですが、西欧諸国を旅したサモア諸島の酋長ツィアビが書いた『パパラギ』(西洋人の意)という本の中に、次のような言葉があります。パパラギは自分の家の前に生えているヤシの木を「このヤシは俺のものだ」と言う。まるでそのヤシの木を自分で生やしたかのように。しかし、ヤシは誰のものでもなく、大地からわたしたちに向かって差し伸べられた神の手だ。その手を握って喜ぶことは許されるが、「神の手は俺の手だ」と言ってはならない。わたしたちには「ラウ」という言葉がある。「わたしの」という意味であり、同時に「あなたの」という意味でもある。だがパパラギの言葉の「わたしの」とは、ただ「わたしだけのもの」である。ツィアビが目の前のヤシを自分のものとは言わないように、目の前の妻も夫も、神が手を差し伸べてわたしたちに与えられた「ラウ」なのです。これは度々に思い起こすべき言葉であると思います。
 最後に、パウロは「皆がわたしのように独りでいてほしい」と述懐しながらも、こう続けます。「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」。生き方それ自体が賜物だと、パウロは言います。わたしたちは、あの人はこうだ、この人はこうだと言って周りの人の生き方を気にします。しかし、大切なことは神の御心に照らして自分や他者の生き方を見ることです。独身にせよ結婚しているにせよ、神の賜物としての人生に真剣に生きることが問われています。パウロは賜物として独身を受け止めましたが、これを絶対視しません。彼は誰の生き方も尊敬します。わたしたちは結婚、こども、仕事、健康…人生のカードを集めるのが好きです。カードを見せ合い、揃えないことを不足と見ます。けれども「人はそれぞれ神から賜物をいただいている」という言葉を信頼するとき、相手にも自分にも不足を感じません。むしろ、神の前にある、あらゆる生き方を認め、本当の自由の中に生きることができるのです。