投稿

10月, 2019の投稿を表示しています

来てくれる神様 吉川良神学生(東京神学大学大学院2年生) ルカによる福音書15章11-32節

説教要旨 10月27日 録音 「来てくれる神様」吉川良神学生(東京神学大学大学院2年生) ルカによる福音書15章11-32節 時々、大学などで知り合ったクリスチャンの友人と会う時「おれ、今神様と離れているんだ」という人がいます。どうしたの、と聞くと、自分は今、祈れていない。聖書も読めていない。教会にもちゃんと行けていない。いやむしろ罪を犯してばかりなんだ。だから、自分は今、神様から離れてしまっているんだと言うのです。 わたしたちも同じように考えてしまう時がないでしょうか。教会に行けていて、祈りや聖書に親しんでいれば、神様と善い関係を結べている。それができていないときは、神様から距離がある。しかし、そのようにわたしたちと神様との関係を考えてしまうことには、神様を、自分たちの信仰の状態で、近づきも離れもする存在であるように考えてしてしまうという問題がないでしょうか。もっと言うなら、神様との関係を、わたしたちの努力次第で変わるもののように考えてしまうということです。 聖書は、神様とわたしたちの関係というのはそういうものではないのだと言います。神様というお方は、わたしたちが努力によって近づいていくようなお方ではありません。わたしたちの無力さによって、わたしたちが遠のいていくようなお方でもない。 わたしたちが信じる聖書の神様は、ご自分からわたしたちのところに来てくださるお方です。罪による人間とのへだたりをご自分から超えて、わたしたちのところに来てくださる。これこそが、聖書が伝える福音です。 今朝の聖書箇所は、そのような神様の姿をわたしたちに伝えています。 このたとえ話には、ある父親と二人の息子が出てきますが、兄弟のどちらも、父親に対する無理解というところで一致しています。父親を、自分たちの言動によって態度を変える人と考えている。弟は自らの罪に目が奪われ、父親が自分を息子として迎えてくれないと考える。兄は、自分の努力に報いてくれないと言って、父親を責める。わたしたちが、自分の罪深さによって神様と距離を感じたり、苦難を前にして「何でですか」と嘆いたりする姿が描かれています。 しかし、イエス様は、このような考えとは全く異なる父親の姿についてお話をなさった。勝手に家を出て行った罪深い息子に対して、父親は自ら走り寄って抱きしめ、接吻します。また、怒って外に立っている兄に対して、出て行っ

聞き分ける心を 石丸泰信牧師 列王記3章4-14節

説教要旨 10月20日 録音 「聞き分ける心を」 石丸泰信牧師 列王記3章4-14節 先週の台風から教会は大変な一週間でした。けれども、嬉しいひとときでもありました。人の支えに触れ、人の祈りに触れる一週間でした。改めて思います。このようなときだからこそ、あの日、礼拝ができて良かった、と。祈りたくて来られた方、祈って欲しくて集まった方もあったと思います。あるキリスト教の大学では、授業の合間に短い礼拝をしています。JR西日本・福知山線脱線事故が起ったとき、普段は殆ど、学生は礼拝に来ないそうですが、その時はチャペルが人で溢れ、収容できなくなり、急遽野外で礼拝したそうです。学生たちは祈りたくなった。何が起っているのか聞きたい。今、どんな言葉が語られているのか聞きたいと思ったそうです。 ある方に、こう言われました。「先生、今のことだけでなく、今後のこと、みんなで話し合いましょう」。何気ない言葉でしたが、印象深い言葉でした。これからわたしたちは何を見れば良いのか。その大学礼拝に集まってきた学生も、この事故が起って自分たちはこれから何を見れば良いのか。信じれば良いのか、知りたい。そう思って集まってきたのだと思います。わたしたちも「これから」を見たいと思います。 向河原教会は伝道開始68年です。今週から69年目の歩みを始めます。聖書は将来を見よと言うとき70年先を見よと言います(エレミヤ25:11、イザヤ23:15。ダニエル9:2など)。腰を据えて見ないといけない長い期間。改めて、教会の創設者たちは、どのように今を見ていたのだろうかと思います。わたしは、向河原教会は災害に強い教会だと思いました。建物が強固だというのではありません。人です。何が来ようと平気で立ち上がる方々だと思いました。つい、昔の人はすごいとわたしたちは言いますが、しかし、今を支えている人たちも同じようにすごいのだと思います。今の教会を、最初の時代の方が見たらどう思うのか。おそらく、頼もしいと感じるでしょう。その中で、わたしたちは何をこれからとして見るか。言い換えれば、何を願うか。 ソロモン王の祈りを読みました。彼はダビデ王の息子で、あらゆる富、あらゆる知恵を持っていたと言われます。しかし、今日の箇所は、それを得る前の若き王ソロモンの場面です。神は彼の夢枕に現れて尋ねます。「何事も願うがよい。あなたに与えよう」。

約束に生きる生き方 石丸泰信牧師 サムエル記下7章8-17節

説教要旨 10月13日 録音 「約束に生きる生き方」 石丸泰信牧師 サムエル記下7章8-17節 大きな災害の直後にも関わらず礼拝できることを心から嬉しく思います。昨晩は教会の扉の前が川のようになっていました。庭の木製プランターがノアの方舟のように出航していました。朝には、会堂前の道路は足が埋まるような泥一面になっており、地域の人々が清掃に負われる中、私たちだけが礼拝をし、讃美歌を歌うのは相応しいことかと考えておりました。中には、今日の礼拝を中止しますという教会もありました。けれども、長老の方が地域の人々の誰よりも早く来て、泥のかき出し作業を始めてくれました。近隣の泥もです。その姿を見て、こういう方が大切にしている礼拝なのだから、誰にも文句はないだろうと思いました。そして教会学校を中止し、その時間を泥清掃に当てたため、今、子どもたちと一緒に礼拝を出来ています。これも思いがけず嬉しいことです。この地域では何度か、川が氾濫したことがあると聞いていました。私は経験はしていませんでした。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉がありますが、共に泣くからこそ一緒に喜ぶことができるのだと思います。昨日は特別な1日でしたが、この今日があるからこそ昨日がとても意義深い1日でもあると思います。 今日の聖書の箇所は先代の王サウル、ペリシテ人との戦いが一段落して漸く平和になったダビデに与えられた神の言葉です。ダビデは神の神殿を建てたいと願いました。しかし神は、ダビデの預言者ナタンに告げました。「わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた・・・なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか」(7:6-7)と。そして、こう続きます。「あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。」私たちにとっても、昨日の台風というのは特別な出来事であったかもしれません。同様に、この言葉というのも、イスラエルの人々にとっては特別なことでした。「あなたがどこにいこうとも、わたしは」と約束されます。馴染みのある言葉に聞こえるかも知れません。しかし、聖書の人々にとって初めて聞く言葉でした。今までは条件付きです。シナイ契約(十戒

雄々しく、強く、愛をもって 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙16章13-24節

説教要旨 10月6日 録音 聖餐礼拝(主日礼拝)「雄々しく、強く、愛をもって」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙16章13-24節 今日がコリントの信徒への手紙一の最後の箇所です。ここでパウロは4つことを勧めます。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。 何事も愛をもって行いなさい」。 第一の勧めは、聖書に繰り返し登場する言葉です。わたしたちの日常では、むしろ、「目をつむりなさい」と言われることの方が多いように思います。目をつむろう、大目に見よう、と。しかし、ある人は言います。「子どもに親の欠点に目をつぶるように教えることは、つまり、その子がその欠点を身につけるということを意味する」と。目をつむることによって、過ちはどんどん伝播します。だからこそ、パウロは「目を覚ましていなさい」と呼びかけるのです。 第一の勧めは、次の勧めに通じます。「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」。これは、「あなたはどこに立っているか」「あなたは誰か」、という問いでもあります。ある人は言います。「この世の中はおかしいと思うとき、その中で自分だけはおかしくなっていないということなんて、ないのだ」と。わたしたちが世を批評するとき、自分はあたかも世と関係のないような顔で、世の外側に立ってものを言います。しかし、わたしたちも、その世の一部なのです。わたしたちがいつも、自分が誰であり、どこに立っているのかを忘れないように、パウロは呼びかけます。 第三に、「雄々しく強く生きなさい」と言います。これはパウロのオリジナルの言葉というよりは、パウロが大切にしていた旧約聖書の次の詩です。「雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて」(詩31:25)。日本語では「強く生きよ」ですが、元の言葉では「強くせられなさい」という受動態です。自分で自分を強くするのではなく、強くしてもらいなさいと言うのです。パウロは別の手紙でこう語ります。「弱いときにこそ強い」(Ⅱコリント12:10)。人は、自分が強いと思っている時は実は弱い。しかし、弱いと思った時、人は強くさせられるのだ、と。人は得意になると耳が塞がり、周りのアドヴァイスを聞けなくなります。しかし、不安になる時、悲しむ時、人は耳が立ちます。「雄々しく強く生きなさい」とは、勇ましくあれということではなく、自分の悲しみをいつ