約束に生きる生き方 石丸泰信牧師 サムエル記下7章8-17節

説教要旨 10月13日録音

「約束に生きる生き方」 石丸泰信牧師


サムエル記下7章8-17節
大きな災害の直後にも関わらず礼拝できることを心から嬉しく思います。昨晩は教会の扉の前が川のようになっていました。庭の木製プランターがノアの方舟のように出航していました。朝には、会堂前の道路は足が埋まるような泥一面になっており、地域の人々が清掃に負われる中、私たちだけが礼拝をし、讃美歌を歌うのは相応しいことかと考えておりました。中には、今日の礼拝を中止しますという教会もありました。けれども、長老の方が地域の人々の誰よりも早く来て、泥のかき出し作業を始めてくれました。近隣の泥もです。その姿を見て、こういう方が大切にしている礼拝なのだから、誰にも文句はないだろうと思いました。そして教会学校を中止し、その時間を泥清掃に当てたため、今、子どもたちと一緒に礼拝を出来ています。これも思いがけず嬉しいことです。この地域では何度か、川が氾濫したことがあると聞いていました。私は経験はしていませんでした。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉がありますが、共に泣くからこそ一緒に喜ぶことができるのだと思います。昨日は特別な1日でしたが、この今日があるからこそ昨日がとても意義深い1日でもあると思います。
今日の聖書の箇所は先代の王サウル、ペリシテ人との戦いが一段落して漸く平和になったダビデに与えられた神の言葉です。ダビデは神の神殿を建てたいと願いました。しかし神は、ダビデの預言者ナタンに告げました。「わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた・・・なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか」(7:6-7)と。そして、こう続きます。「あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。」私たちにとっても、昨日の台風というのは特別な出来事であったかもしれません。同様に、この言葉というのも、イスラエルの人々にとっては特別なことでした。「あなたがどこにいこうとも、わたしは」と約束されます。馴染みのある言葉に聞こえるかも知れません。しかし、聖書の人々にとって初めて聞く言葉でした。今までは条件付きです。シナイ契約(十戒)は「この戒めを守るなら、私はあなたの神になる」という約束でした(申命記7:12等)。しかし今や、どこに行こうとも、何をしようとも、わたしはあなたと共にいる。この約束を信じることができるのは幸いなことなのだと思います。
信じるということをある人は3つのレベルに分けられると言いました。認知、すわなち「知っているレベル」。良い、つまり「同意するレベル」。そして、「信頼するレベル」です。友人関係に喩えれば、あなたを「知っています」というレベル。次は「友達」というレベル。友だちだから一緒に食事に行ったりします。そして3つ目は「親友」というレベル。こんなことを言っても関係は変わらないという信頼があります。だから、自分が悪いことをしたこと、人には言えないことも親友だけには言える。信じるということはそうゆう関係になっていくことです。
交読した詩編51編はダビデが歌った詩でした。ダビデは後に、許されないことをし、隠していました。しかし、神に対して本当のことを言ったのが、この詩編です。あなたがどんなことをしようとも、それで私はそっぽ向いたりしないと言われる神を親友のように信じていたからこその歌です。もしも、条件付きの関係であったなら、歌うことのできない詩です。 そして、この神の約束はいつまで続くのか。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」と約束されました。歴史的には、この後、イスラエル王国は滅びてしまいます。しかし、人々は、この約束を信じ続けました。目に見える王国はなくなってしまったかもしれない。しかし、目に見えない形での王国は約束通り続いている。いつか目に見える形で再び現れる。そして、それはイエス・キリストとなって実現したわけです。このイスラエルの人たちは、この約束を信じていたからこそ、何度挫けることがあったとしても、目に見えるものが何度消え去ってしまったとしても、信じ続けることができた。もう一度やろうということができたのだと思います。それも幸いなことです。
今回の台風を通して、これから私たちは、この間、大掃除をしたばかりなのに、もう一度掃除をしないといけない。せっかく綺麗な会堂であったのに床上浸水したのは初めてのことだと聞いています。これから今までにない何かの弊害がこれから出て来るかもしれません。けれども、私たちにとって、傷のない教会こそ素晴しいのではなくて、たとえ何があったとしても、もう一度立ち上がっていく教会、そのことこそ私たちは信じていいのだと思います。何度、台風が来ようとも掃除をし、礼拝者として生きる。イスラエルの人たちが何度も立ち上がったように、私たちも立ち上がって歴史をまた紡いでいきたいと思います。