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励み、務めを果たしなさい 石丸泰信牧師 テモテへの手紙Ⅱ 3章10節-4章5節

説教要旨7月28日 録音 主日礼拝「励み、務めを果たしなさい」石丸泰信牧師 テモテへの手紙Ⅱ 3章10節-4章5節 小松伝道師の就任式にあたり、パウロが若い伝道者テモテに宛てた手紙の一節を聞いています。この手紙は、パウロとテモテの個人的なやりとりではなく、教会が自分たちに宛てられた言葉として聞いてきたものです。教会とは何でしょうか。わたしたち一人ひとりが教会です。同時に、わたしたちが「聖なる公同の教会を信ず」(使徒信条)と告白しているように、教会は信仰の対象でもあります。「教会」を意味する、聖書のギリシア語「エクレシア」は、「外に呼び出された者たち」という意味を持ちます。教会が「神に呼び出された者たち」であることを、わたしたちは信じています。さらに、「公同の」という告白が重要です。教会はプライベートなものではないということです。 ある牧師が教区の婦人修養会に講師として招かれたときのことを語っています。講演後、ひとりの参加者から次の質問があったそうです。「教会の中にどうしても愛せない人がいる。どうすべきか」。講師は少し考えてこう答えました。「それはよい教会ですね」と。続けて言いました。「愛せる人しかいない教会なら、もしかしたら、どこかで愛せない人を追い出した教会なのかもしれない。気の合う人たちだけで集まって、自分たちの好きなようにするのが、よい教会ではないのです」。 教会は個人的な理由で集まった群れではありません。わたしたちがここにいる理由は、神にあります。教会には様々な人がいます。愛せない人もいるかもしれない。でも、神がわたしたちをここに集められました。ここから遣わされるためにです。「教会を信ず」とは、このことです。 今日の手紙でパウロはテモテに語っています。テモテ、あなたは幼い頃から聖書に親しんできた。だから、教会を信じることもよく知っているね。その上で言う、と。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」。人は「自分に都合の良いこと」を聞きたいと思い、自分の考えを肯定してくれる人を求め、そういう人を愛します。聖書の言葉を聞くときにも、まず自分の願いが先に立ち、それを応援するような言葉を求めたりします。そうではない言葉を理解できな

復活と罪の赦し 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章12-20節

説教要旨7月21日(録音はありません) 主日礼拝「復活と罪の赦し」石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章12-20節 福音書は主イエスの十字架の死の後、マグダラのマリヤとイエスの母マリヤは葬られた墓を見つめていたと言います。象徴的な描き方です。人の人生は墓で終わります。そして、その人を愛する者たちは、亡くなったその人のことを慕って墓に向かいます。しかし、墓を見つめるしかできない。けれども、日曜日の朝、動くことのないはずの墓は開いていました。神は、自分たちには考えられないことを為さる方だ。主イエスは復活した。そうして教会は始まっていきました。 素直に聞けば、私たちに与えられている死者の復活という約束は、単純に喜ばしい約束だと思います。けれども、このコリントの教会の人たちの中のある人たちは、それを信じられませんでした。この「あなたがたの中のある者」とは初めて教会に来た人たちではありません。いつも教会に来て礼拝をしている人たちです。そういう人が言うわけです。死者の復活など無い。あるいは、自分が死んだ後、甦ろうと甦るまいと自分の信仰生活には関係はない。どちらでも良い、と。どちらでも良い。案外、私たちもそう思っている方は多いのではないかと思います。私自身、教会に行き始めたのは自分の蘇りを求めて教会を訪ねたわけではありませんでした。そして教会に行き続けたのも、自分の蘇りを信じたいと思ってではありませんでした。単純に、この聖書の言葉の中に真実があるかもしれない。このような方が私の神であるというのなら信頼できると思ったからです。おそらく、コリントの人たちも、そういう信仰だったのだと思います。言い換えれば、そこに留まる信仰です。 しかし、パウロは言います。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」わたしたちは、キリストの復活と自分の復活を2つに区別して考えます。キリストは神の子。ならば復活はあり得たでだろう。しかし、わたしたちは違う、と。しかし、パウロは死者の復活を否定するならば、キリストの復活も否定することになる、と言います。つまり、キリストの復活とわたしたちの復活は切っても切れない関係にあると言うのです。 どうしてか。神が、キリストの歩み

新しい出発 小松美樹伝道師 創世記32章23-31節

説教要旨7月14日 録音 主日礼拝「新しい出発」小松美樹伝道師 創世記32章23-31節 ヤコブの人生を変える転換点がこの格闘の中に描かれています。ヤコブの物語は創世記25章から始まります。ヤコブは長子に与えられる権利を自分のものにしたいと考え、双子の兄エサウからその特権を奪います。また、母リベカの勧めによって、ヤコブは父イサクがエサウに与えようとしている祝福を、騙し取りました。その結果、ヤコブはエサウに命を狙われ、恐れて故郷から逃げました。新たな地で叔父ラバンのもとで、20年の間働きながら暮らし、結婚もしました。しかし、そこでヤコブはひどく働かせられて苦労し、結婚をめぐってラバンに何度も騙され、逃げるように故郷へと帰ろうとしているのです。帰りたくて帰ってきているのではありません。エサウのいる故郷に帰ることは、不安と恐れがありました。エサウへの贈り物を用意して、なんとかなだめようと考え、群れと家族に川を先に渡らせました。こうして国境であるヤボク川の前に一人残っているのです。 その夜、「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」とあります。何者かは、神です。それは神と格闘する程の祈りでもありました。そこには圧倒的な力の差がありますが、ヤコブは諦めませんでした。なんとしてでも神に求めて、人から奪うのではなく神が与えてくださる祝福を得たかったのです。ヤコブはすでに祝福されていのになぜこんなに苦労するのかと思いますが、それまで祝福を受けてきた人たちも決して苦労のない生涯ではありませんでした。神が共におられるとは、親が子に、大丈夫だ、いつも側にいるという時のように、全面的にあなたを守り、味方することを指します。それは神の保証であり、加護であり、神が私たちの側に立たれることを意味します。主が臨んで、向かってきてくださるのです。神がヤコブの故郷に帰ることを保証し、それが御心だと言われるのなら、それは神のご計画の中にあって神が望んでおられることです。神が「良し」としてくださるから、歩めるのです。 この格闘でヤコブは足を打たれました。人を騙してでも欲しいものを手に入れてきたヤコブなら、ここで怪我をしたら、エサウの待つところに行くのはやめておこうと言ったかもしれません。しかし今は足を引きずっているのにエサウの元へといこうとしています。人から騙し取って逃げていたヤコブの暗闇に朝日が照り、太陽が

もし復活がないなら」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 15章1-20節

説教要旨7月7日 録音 聖餐礼拝(主日礼拝)「もし復活がないなら」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 15章1-20節 パウロは「死者の復活」について議論しています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。教会の宣教は「あなたがたが十字架に付けたキリストを神は甦らせた」という言葉で始まってゆきました。そうであればコリント教会の人たちも知っているはずでした。それなのに、どういうことなのでしょう。 彼らは、しかし、キリストの復活がなかったとは言いませんでした。それは信じていました。彼らは死者の復活はないと言ったのです。つまり、キリストは復活した。しかし、自分たちの体は別だ、と言っていたわけです。キリストの復活と自分の復活がどんなに深く結びついているか、彼らには分からなかったわけです。パウロは、こう答えます。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」 不思議な議論だと思います。しかし、これは信仰の問題を考えるのにとても大切だと思います。普通、一般常識に照らして、死者の復活はあり得るのだろうかという問いから、その延長線上にキリストの復活を考えます。しかし、パウロはこうです。キリストは復活した。では、私たちはどうなのだろうか、という順序なのです。言い換えれば、自分の考えに信頼を置いて考えるのか。あるいは、神の為さることに信頼を置いて考えるのか、ということです。 パウロは、この話をする際、「キリストが・・・聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れ・・・そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と言います。なぜ、自分の話をしているのか。キリストの復活について考えるとき、他人事のように議論を重ねても意味が無いからです。それは自分の考えを土台にした議論だからです。パウロは神の為さったことを土台にして考えます。つまり、復活の主が、この自分にも出会ってくださっ