新しい出発 小松美樹伝道師 創世記32章23-31節

説教要旨7月14日録音


主日礼拝「新しい出発」小松美樹伝道師


創世記32章23-31節
ヤコブの人生を変える転換点がこの格闘の中に描かれています。ヤコブの物語は創世記25章から始まります。ヤコブは長子に与えられる権利を自分のものにしたいと考え、双子の兄エサウからその特権を奪います。また、母リベカの勧めによって、ヤコブは父イサクがエサウに与えようとしている祝福を、騙し取りました。その結果、ヤコブはエサウに命を狙われ、恐れて故郷から逃げました。新たな地で叔父ラバンのもとで、20年の間働きながら暮らし、結婚もしました。しかし、そこでヤコブはひどく働かせられて苦労し、結婚をめぐってラバンに何度も騙され、逃げるように故郷へと帰ろうとしているのです。帰りたくて帰ってきているのではありません。エサウのいる故郷に帰ることは、不安と恐れがありました。エサウへの贈り物を用意して、なんとかなだめようと考え、群れと家族に川を先に渡らせました。こうして国境であるヤボク川の前に一人残っているのです。
その夜、「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」とあります。何者かは、神です。それは神と格闘する程の祈りでもありました。そこには圧倒的な力の差がありますが、ヤコブは諦めませんでした。なんとしてでも神に求めて、人から奪うのではなく神が与えてくださる祝福を得たかったのです。ヤコブはすでに祝福されていのになぜこんなに苦労するのかと思いますが、それまで祝福を受けてきた人たちも決して苦労のない生涯ではありませんでした。神が共におられるとは、親が子に、大丈夫だ、いつも側にいるという時のように、全面的にあなたを守り、味方することを指します。それは神の保証であり、加護であり、神が私たちの側に立たれることを意味します。主が臨んで、向かってきてくださるのです。神がヤコブの故郷に帰ることを保証し、それが御心だと言われるのなら、それは神のご計画の中にあって神が望んでおられることです。神が「良し」としてくださるから、歩めるのです。
この格闘でヤコブは足を打たれました。人を騙してでも欲しいものを手に入れてきたヤコブなら、ここで怪我をしたら、エサウの待つところに行くのはやめておこうと言ったかもしれません。しかし今は足を引きずっているのにエサウの元へといこうとしています。人から騙し取って逃げていたヤコブの暗闇に朝日が照り、太陽が昇ったのです。それは神の祝福を得たヤコブの全く新しいあゆみの始まりです。もうヤコブはこれまでのヤコブではありません。
祝福は救いをもたらす力です。それは人が主に愛され、守られてこの世を歩むために必要なものです。神の祝福は人を良しとしてくださるものです。否定されたまま生きるのは、辛く力尽きてしまいます。しかし、造り主であられる神が、あなたは生きていていい、愛していると言ってくれたら、その否定をはねのける力を持つでしょう。
ヤコブにとって、このことが何よりも必要で重要なことでした。それまではエサウに対する恐れが襲って、神に必死に祈っていました。しかし、ここでの神との格闘によって見えてくるのは、ヤコブにとってエサウのことはもう問題ではなくなっているということです。神の祝福を得ることがヤコブの中の問題になっています。
神の祝福を、後ろめたさを無くして真に受けることによって全てのものの見方が変わります。神が私を祝福し、私の存在を良しとしてくださるならば、全てのことが神の加護によって歩み出す勇気を得させ、困難に耐えうる力となります。ヤコブの姿は私たちそのものです。神のことばを都合の良いように聞き、神との真の交わりを知ることを自ら妨げてしまう私たちに、神は近づき、祈りを聞いて下さいます。ヤコブは、人から奪い取らなくても、神が全てを与えてくださることを知ったのです。ヤコブのような私たちは、全てを自らの判断で生きようとする思いや、自分で手に入れようとします。そうして崩れていく神と人との関係を、神はイエス・キリストの十字架によって、すべての赦しを与えてくださいます。神の赦しと祝福に照らされて新しく歩み出しましょう。