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聖なる者たちの闘い方 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙6章1-11節

説教要旨 8月26日 録音 聖なる者たちの闘い方 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙6章1-11節  パウロはコリント教会で起こった事件を取り上げながら、教会とは何か、キリスト者とはどういう存在かを語ります。教会の中で一人が他の人を裁判に訴えたという事件が起こっていました。何らかの財産問題だろうと思います。借金を返せなくなったのかもしれません。パウロは言います。「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」。教会の問題を世の裁きに委ねることを問いただしているのです。パウロは国家の司法制度を否定しません。彼自身、エルサレムで捕らえられ訴えられたとき、ローマの法に従い、最終的にローマ皇帝に上告しました。訴えてはならないのではなく、教会には仲裁する知恵もないのか、と言っているのです。  パウロは「聖なる者たちが世を裁くのです」とまで言います。一見、独善的な言葉です。ある子どもが、「こども相談室」で「なぜ人を殺してはいけないか」を問いました。回答する教育者たちは誰も答えられませんでした。なぜいけないのか。その行為の結果や不利益を話すことはできます。しかし、人は自分の内側に絶対的な正しさを持たないので、罪そのものを考えることも語ることもできないのです。絶対者である神の義によって、初めて語ることができる言葉があります。聖書の正しさを聞いているからこそ、教会が世を裁くと言うのです。  パウロは言います。「あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。」裁判で明らかになるのは、どちらが正しく、どちらが正しくないかです。表向きは解決します。しかし穏やかではありません。相手は謝ったとしても仕返しを考えるかもしれません。そもそも完全無欠な者はいません。不義な者同士が一時の正義を争い、仲違いが起こる。その時、勝ち誇るのは悪魔だけです。だから、パウロは言います。「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。」奪われるままでいることが、敗者にならない唯一の道だからです。非暴力運動を先導したマーティン・ルーサー・キング牧師は言いました。「わたしたちの正義の乾きを、恨みと憎しみの杯で満たしてはいけない」と。彼は虐げられている側に鍵があると考えました。被抑圧者が本当の意味で立ち上がるときに悲しみの連鎖は止まる。彼の心には主イエスの姿があっ

健やかさを取り戻すための倫理 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 5章1-13節

説教要旨 8月19日 録音 「健やかさを取り戻すための倫理」 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 5章1-13節 パウロは、ここで一つの事件を取り上げながら、教会とは何か、キリスト者とはどういう存在かを語ります。教会の中で「みだらな行い」があったと言います。「みだらな行い」の具体的な状況は不明ですが、性的に不適切な関係です。教会では男女関係や家族のことなどには、あまり口を挟まないという風潮があります。しかし、ここでは言いにくい雰囲気だったというよりは、おそらく教会の皆が「まあ、いいか」と思っていたのです。わたしたちは自由なのだから自由にすればよい、と。 パウロが問題にしているのは、単に個人の罪の問題でなく、その人が罪の中に留まり続け、教会がそれを容認していることでした。ある人は「罪とは赦してはならないもののことだ」と言いました。「まあ、いいか」では決して済まされないのです。それゆえ、神は罪の赦しの代価として独りの子の命を差し出されました。それなのに、わたしたちが罪に対して「まあ、いいか」と言うならば、十字架無しの教会になってしまいます。 「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」と言います。しかし、パウロが今、教会をふるいにかけるのは「主の日に彼の霊が救い出されるため」です。裁きの日の前に立ち返ることができるように。しかし、パウロは性的な乱れのことだけを問題視しているのではありません。「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者…」神が悲しまれることが幾つも挙げられています。その一つ一つを裁き、追放しようとするなら、皆が去らなければならなくなります。教会の法律、教会法には「戒規」があります。これは罪を犯した人を追い出す為のものではありません。その人が健やかさを取り戻すための戒めなのです。更に言えば、教会が教会であり続けるための制度です。 続けて、パウロは「古いパン種をきれいに取り除きなさい」と言います。「パン種」は罪を犯した個人を指すのではありません。「古い」、つまりキリストを知る以前の姿を意味します。神の悲しみを知らない「まあ、いいか」という心が、あっという間に共同体全体を腐らせると言っているのです。それがよくわかる物語があります。ルカ福音書の会堂で主イエスが腰の曲がった女性をいやした話です(13章)。安息日だったの

真理からのイマジネーション 上竹 裕子 牧師 ミカ書6章8節、エフェソの信徒への手紙4章17-32節

説教要旨 8月12日 録音 「真理からのイマジネーション」上竹 裕子 牧師 ミカ書6章8節、エフェソの信徒への手紙4章17-32節 神は、わたしたちを新しくするために招かれます。「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」なさい。「だから」と続きます。だから、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」。この言葉を守れるか否か考えるなら、健忘症にでもならない限り難しいと思います。しかしこれは、ただ怒りを忘れなさいとか、午前0時になったら気持ちをリセットしなさいといった表面的な掟ではないはずです。重要なのは、この教えの意図をわたしたちがどう聞くかです。ユダヤの暦では、日没から新しい一日が始まるので、新しい日に昨日の怒りを持ち込んではいけないという教えです。怒ってもよい。ただコントロール不能な怒りで罪を犯すことを戒めています。 25節以下は、具体的で積極的な教えが語られます。「偽りを捨て…なさい」、「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません…」とあります。これらのベースには「十戒」があります。人の価値観は変化し、法は改訂されます。十戒は、時代や環境の変化の中で変わらない、永遠の法として石板に刻まれました。しかし実際には、ユダヤ教の伝統、キリスト教会でも、多様性をもって解釈されてきました。例えば、十戒の第8戒「盗んではならない」(申5:19)という戒めはシンプルですが、次のような解釈があります。ただ窃盗を禁ずる戒めではなく、「隣人の牛が迷い出、隣人の生活が危険に晒されることが明らかなのに見て見ぬふりをしないこと。盗まれるのと同じ隣人の損失を未然に防ぐこと…隣人の生活と命を守る積極的な責任を示している」(P.D.ミラー)。 「盗まない」とは、そもそもどういうことなのか。もっと積極的に想像力を働かせるようにと招きます。聖書は情報言語ではなく、硬直したマニュアルでもありません。神の声を聞き、どう考えるのか。聞くわたしたちに委ねられていると言ってもよいのです。「盗んでいない」と胸を張って言える人がどれだけあるでしょう。でも聖書は責めるのでなく、「今から盗んではいけません」と言います。「むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるように」と。わたしたちは愛の乏しい者ですが、聖書から愛の想像力を学びます。想像

わたしに倣う者になりなさい 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙4章14-21節

説教要旨 8月5日 録音 「わたしに倣う者になりなさい」石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙4章14-21節 「こんなことを書くのは」とパウロは言います。手紙の最後のまとめの様な言い方です。「こんなこと」とはどんなことか。今までずいぶんな言葉が言われていました。あなた方は裸の王様のようだ(4:8)。あるいは、同じキリスト者であるのに、わたしは見せ物。しかし、あなたたちは観客席にいる。そこで喜んで手を叩いて見ている様ではないか(4:9-)。ずいぶんな皮肉が書かれていました。けれども「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子どもとして諭すためなのです」と言うのです。あなた方が大切だから。本当に大切なことに気が付いて欲しいから、とパウロは言うのです。 ここでパウロが言いたいことは「わたしに倣う者になりなさい」ということです。言い換えれば、わたしを手本にせよということです。ここで、テモテのことが紹介されています。直にパウロの後輩である指導者テモテがコリントの教会にやって来ます。彼を見ると「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせる」からです。 自分の人生の手本のような人はあるでしょうか。今の自分の姿。そこまでの道のりは全くのオリジナルだというのではないと思います。出会いがあり、手本があって今に至る。そういうものだと思います。わたし自身は人生の手本よりも信仰の手本のような人を思い起こします。先輩であるよりも年下の後輩の姿や言葉であることの方が多くありました。例えば、献金です。あるとき収入が昨年よりも下がることが分かり、献金の額を減らそうか考えていました。すると友人は言うのです。「え、石丸さん。献金は最後ですよ。他のものを削って削って、それでもどうしようもなければ最後に献金を減らす。余り物を献げているのではないのですから」。ハッとさせられる言葉でした。そして彼はその言葉の通りの生き方をしている人でした。他にも大勢の手本になるような人がいます。その点ではとても恵まれていると思います。けれども、彼らのようになりたいと思ったことはありません。そうではなくて、彼らと同じものを見たい。その人が見ているものを同じように自分も見たいと思いました。誰かを手本にするということは、そのようなことなのだと思います。 パウロが言う「わ