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多くの部分、一つの体 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12-26節

説教趣旨3月31日 録音 主日礼拝「多くの部分、一つの体」 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12-26節 わたしたちは礼拝で「教会を信ず」(使徒信条)と告白します。聖書には教会に関するさまざまな比喩が登場しますが、パウロは今日、最も印象的なキリストの「体」というイメージを示します。パウロはこのイメージで、教会が多様でありながら一つであること、また教会が生きているというリアリティを語ろうとしています。 「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと」と言います。ユダヤ人は神の民としての誇りを持っていました。ギリシア人はその知恵や文化を誇りました。まったく異なる背景を持つ人々、さらに「奴隷…自由な身分の者」といった、相反する立場の人々が一つとなって信仰生活をするのが教会だと言います。パウロは一つになることができるのは、彼ら自身の手柄ではない。皆が一つの洗礼を受け「一つの霊をのませてもらった」からだと語ります。 パウロは教会が一つであることを確かめながら、同時にその多様性を強調します。「体は一つでも、多くの部分から成り…キリストの場合も同様である」と言います。皆が同一になるのではなく、それぞれがその違いをそのままに一つの体を形づくっていると言うのです。興味深いことは、「教会は人の体のようなものだ」と言うのではなく、「キリストは人の体のようなものだ」とパウロが言っていることです。教会の多様な人が集まる現象をさして「体」と言うのではありません。まず、キリストご自身が多様な部分を持つ「体」のような方であると言い、その主に集められ、「霊をのませてもらった」教会も、同様だと言っているのです。キリストはご自分の弟子たちに一つの弟子像を強制することはありませんでした。どんな人もどんな言葉も受け入れ、十字架をさえ受容されました。 わたしたちはよく「クリスチャンとはこういう人」と規定し、こうあらねばと考えます。しかしパウロは「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部ではなくなる」だろうか、と問います。あなたが隣の人のようではなく、誰とも違うのは神の「望み」のゆえだと語ります。だからこそ、足よ、自分に価値がないなどと言うな。耳よ、自分が目に劣るなどと考えるな。他の人と異なるところに、あなたを造られた神の目的があるのだと言うのです。 最近、「わたしは

息吹は思いのままに 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章4-11節

説教趣旨3月24日 録音 主日礼拝「息吹は思いのままに」 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章4-11節 パウロは霊的な賜物の働きについてこう話し始めます。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなされるのは同じ神です」。どの賜物も同じ方に由来するとしながら、その方を同じ「霊」、「主」、「神」と3つに言い換えて語ります。霊は「賜物」として、主は「務め」として、神は「働き」として、わたしたちの間に現れると語るのですが、これは三位一体的な表現で、それぞれが相互に関わり合っているというものです。 よく教会では「賜物」という言葉を使います。パウロはここで「務め」も「働き」も、わたしたちを通して神が働かれる賜物の表れなのだと言っているのです。わたしたちにとって聖霊の働きが身近になるのは、奇跡的なことが起きたり願いが不思議な仕方で叶ったりしたときかもしれません。しかし、霊の働きはむしろ、どんなときにも神に信頼し、どんなことの中にも神の恵みを信じることができることなのだと思います。 パウロはさまざまな賜物を挙げ、聖霊は異なる賜物を与えられると言います。賜物の現れ方はそれぞれに違うけれども、それらは一つの霊からのもので、一つの目的に向かっていると聖書は語ります。一つの目的とは「全体の益となる」ことです。 「賜物」という言葉は、よく才能や適性と同義で使われます。しかし、聖書は「全体の益」ということを語ります。互いに仕え合うことが賜物を与えられている目的だと言うのです。ある人は、この賜物とは「人格」だと言いました。よい働きをするためには、能力よりも人格的な信頼関係の方がはるかに大切だと言います。わたしたちは何ができるかで賜物の価値を測りますが、それをどのように用いるか、何のために使うのかが重要なのです。調理学校に行けば包丁さばきは抜群に上手くなります。しかし、それを台所ではなく町中で振り回したらどうでしょうか。人を護るための武術を、脅すために使うとしたら。 賜物を能力としてしか見ないなら、自分は多くを持っていないと思う人もいるかもしれません。しかし、賜物は能力に限定されません。自分が劣等感を感じるものも、神はよいものとして与えているもの

イエスは主である 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章1-3節

説教要旨 3月17日 録音 主日礼拝「イエスは主である」 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章1-3節 「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」とパウロは言います。「霊的」と聞くと、何か特別な力を想像します。けれどもパウロがここで何よりも言いたいことは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」ということです。たったひとこと「イエスは主である」と言うことのできる人は皆、聖霊の賜物を受けていると言うのです。「自分には信仰がないのでは」と疑う人がいます。おそらく、信仰の実感が薄いのです。しかし、信仰は自分がどう感じるかではなく、神に信頼して歩んでいくことです。そのプロセス自体が聖霊の賜物なのです。 主イエスの十字架は、ユダヤの人々にとって神の呪いでした。この十字架の死が神の御業であったと信じない人たちが「イエスは神から見捨てられよ」と言う中、「イエスは主である」と言える人は、それだけで聖霊の賜物を受けている証です。信仰があるということは、改めてすごいことなのだと思います。 福音書には、その人がクリスマスに家畜小屋の飼い葉桶に生まれたという事実を伝えられています。しかし、その方を主と呼ぶのか、ただの人と見るのかは大きな違いです。わたしたちは飼い葉桶に真の人として生まれたイエスの生涯と十字架の死を通して、神を知ります。イエス抜きに神の思いを知ることはできないと信じています。 祈祷会で旧約聖書を読んでいますが、主イエスが語られたたとえの元ネタのような話がたくさん出てくるので、皆さん驚きながら言います。「主は手元に聖書を持っていないはずなのに、なぜこんなに聖書を知っているのか」と。それは聖書を描いた本人だからです。主は神の国を、まるでもう見ているかのように話す方です。そして、嵐で舟が沈みそうになると、嵐を叱りつけて凪にされる方です。イエスを見た人々は言いました。「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)。「権威をもって話すこの人は誰なのだろう」(ルカ4:31-)。「権威authority」という言葉の原義は「著者author」です。まるで創作者のようにこの世界のことを話すこの人は、いったい誰なのか。福音書記者は答えを知っています。このイエスは主である、と。 主イエスは半身不随の人を癒されたとき、その人に向かっ

ふさわしい心を 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章27-34節

説教要旨 3月10日 録音 主日礼拝「ふさわしい心を」 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章27-34節 今日の箇所は聖餐式の式文とされている言葉です。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」。聖餐はそれ自体に力があります。聖餐に与る人間には何の資格も問われません。しかし、聖餐にはふさわしい受け方があります。信仰によって受けるということです。世々の教会は聖餐の食卓に与る信仰を大切にしてきました。 けれども、パウロがここで言う「ふさわしさ」はもっと具体的なことです。先に来た者は後の者を待ちなさい。富んでいる人は貧しい人と分かち合いなさい、とパウロ言います。富む人が貧しい人を待つことができないのは忍耐の不足です。しかし、貧しい人たちに「ふさわしさ」が問われないのかというと、そうではないと思います。貧しい人たちが、先に食べている人たちを訴えているとすれば、赦しが不足しています。互いに忍耐や赦しが不足し、聖餐の食卓を守れなくなっています。食卓の真の主人が見えなくなっているのです。聖餐に与る者の「ふさわしさ」とは、この食卓に招かれる主人を知っているということです。 「ふさわしくないままで」という言葉は、反省を促す言葉だと誤解されてきました。祈りの中でわたしたちは、いかに罪を犯してきたかを顧みます。自分がいかに主イエスの思いから離れているか振り返るとき、聖餐にふさわしい者だとは誰一人思えないでしょう。しかし、聖書は昨日までの自らの姿を反省して、それで初めて聖餐に与れると言っているのではないのです。 主イエスは次のような話をされました。ある家来が、返済不能なほどの莫大な借金をし、主人の憐みによって帳消しにしてもらったという話です。借金が赦された家来は、しかし、金を貸していた仲間に出会うと、捕まえて「返せ」と首を絞めます。それを知った主人は言います。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18:33)。わたしは高速道路を運転していると、つい混んでいる左車線を抜けて追越車線を走り、左車線に割り込みます。自分が入れてもらうときは「すみません!」と思っているのに、自分と同じようなやり方で割り込んでくる車があると「なんだよ」と思ってしまう。しかし、その時に

主の晩餐について 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章17-26節

説教要旨 3月3日 録音 聖餐礼拝(主日礼拝)「主の晩餐について」 石丸泰信牧師 録音 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章17-26節 今日の箇所は、最後の晩餐で主ご自身が語られた言葉で、わたしたちの礼拝の聖餐式の制定の言葉です。教会では、このときから今日に至るまで聖餐を守り続けてきました。当時、コリント教会の人たちは可能な限り集って礼拝をささげていました。まだ日曜日は休日ではありませんでした。人々は仕事を終えて、夜に集まってきます。それぞれ持ち寄った物を分け合いながら一緒に食卓を囲みます。その食事の後で、主が制定された聖餐を守りました。最初のキリスト者たちは、パンを割き、ぶどう酒を分け合う聖餐を中心に礼拝を守っていました。 遅くまで働かねばならない人、例えば、当時、教会の中には奴隷の者もありました。奴隷は主人の許可がなければ仕事を終えることができません。富裕層は比較的早く教会に集うことができました。キリスト者になるまで共に食卓に着くことなどなかった身分の異なる人たちが、一緒に食事をしたわけです。聖餐の食卓は一緒にするにしても、夕食は先に食べていようというのはありそうなことです。しかし、パウロはこの有様に相当腹を立てています。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」。 パウロはこの教会の中で「仲間割れがあることを聞いています」と語ります。でもパウロは「だれが適格者かはっきりするために…争いも避けられない」とも言います。誰が正しいかはっきりするという意味ではありません。「適格者」とは、「本当のもの」(ドキモス)という言葉で、語源は「火で精錬される」(ドキマゾー)という意味です。金が火で錬られて純粋な金となるように、教会は試練を通して本物になって行く。だから、試練はあっても良い。しかし、これは別。「それでは…主の晩餐を食べることにならない」と言うのです。 それでパウロは、主の言葉をもう一度伝えます。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である…この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である…』と言われました…」。最後の晩餐は主が切望していた食卓とも言われます。しかし、この席にいた弟子たちはだれも主の気持ち