主の晩餐について 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章17-26節

説教要旨 3月3日録音


聖餐礼拝(主日礼拝)「主の晩餐について」 石丸泰信牧師 録音

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章17-26節
今日の箇所は、最後の晩餐で主ご自身が語られた言葉で、わたしたちの礼拝の聖餐式の制定の言葉です。教会では、このときから今日に至るまで聖餐を守り続けてきました。当時、コリント教会の人たちは可能な限り集って礼拝をささげていました。まだ日曜日は休日ではありませんでした。人々は仕事を終えて、夜に集まってきます。それぞれ持ち寄った物を分け合いながら一緒に食卓を囲みます。その食事の後で、主が制定された聖餐を守りました。最初のキリスト者たちは、パンを割き、ぶどう酒を分け合う聖餐を中心に礼拝を守っていました。
遅くまで働かねばならない人、例えば、当時、教会の中には奴隷の者もありました。奴隷は主人の許可がなければ仕事を終えることができません。富裕層は比較的早く教会に集うことができました。キリスト者になるまで共に食卓に着くことなどなかった身分の異なる人たちが、一緒に食事をしたわけです。聖餐の食卓は一緒にするにしても、夕食は先に食べていようというのはありそうなことです。しかし、パウロはこの有様に相当腹を立てています。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」。
パウロはこの教会の中で「仲間割れがあることを聞いています」と語ります。でもパウロは「だれが適格者かはっきりするために…争いも避けられない」とも言います。誰が正しいかはっきりするという意味ではありません。「適格者」とは、「本当のもの」(ドキモス)という言葉で、語源は「火で精錬される」(ドキマゾー)という意味です。金が火で錬られて純粋な金となるように、教会は試練を通して本物になって行く。だから、試練はあっても良い。しかし、これは別。「それでは…主の晩餐を食べることにならない」と言うのです。
それでパウロは、主の言葉をもう一度伝えます。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である…この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である…』と言われました…」。最後の晩餐は主が切望していた食卓とも言われます。しかし、この席にいた弟子たちはだれも主の気持ちを理解しませんでした。だからパウロは、その主の思いを踏みにじりたくないと思ったのだと思います。主は聖餐を「新しい契約」と言われました。旧約で与えられた律法は「神の思いを知る地図」のようなものでしたが、人はそれを「自らの正しさをはかる物差し」にしました。だから、新しい契約が必要でした。それは、神があなたを食卓に招く主人としてここにいる、という赦しの約束です。招かれた者は自分がどれほど主に背を向けていたか知ることになります。新しい契約を結ぶために主は血を流されました。ご自身の命を差し出されました。無理解な者、裏切る者のためにです。もったいないことです。
最後の晩餐の前日、ある女性が主のもとに来て高価なナルドの香油を主に注ぎました(マルコ14章)。これを見た人たちは「無駄遣い」と言って憤慨しました。「○○円以上で売って貧しい人に施すことができたのに」と。正しい意見です。多くの人を助けるというのは、よく知られた愛です。この愛はしかし、合理的な愛です。得か損か。それで愛する相手を決め、愛の使い方を決める。しかし、わたしたちも計算をします。あの人にはこれをした。これをされた。だから、愛する価値はない。待たなくて良い。先に食べても文句はない。愛は計算し始めた途端、消えていってしまうものなのではないかと思います。ある牧師がひとりの母親から一冊の子育ての記録ノートを見せられたそうです。そこにはすべての項目にかかった費用が記載されていたそうです。これを見せて、彼女は嬉しそうに言ったそうです。「このノートは娘が結婚するときに渡します。どれだけ大切に育てたか、一目でわかるようにしてあります」と。これを見て誰が幸せになるでしょう。
香油を注いだ女性の行為を人々は瞬時に計算し、「もったいない」と考えましたが、主はそれを愛として受け止めました。人のために自分の持てるものを差し出しても惜しくないと思えることを、主は愛と呼ばれます。主は裏切る者たちとの食事を望まれ、そこで自らの命を差し出しされます。主はわたしたちに、この愛の食卓によって成長していってほしいと願われるのです。