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12月, 2018の投稿を表示しています

東方の学者たち 石丸泰信牧師 イザヤ書61章1-11節、マタイによる福音書2章1-12節

説教要旨 12月30日 録音 主日礼拝「東方の学者たち」 石丸泰信牧師 イザヤ書61章1-11節、マタイによる福音書2章1-12節  マタイ福音書のクリスマスの物語には「占星術の学者たち」が登場します。「東の方から」来たと言われる彼らは、どこかエキゾチックで人々を魅了し、多くの文芸家や芸術家によって、さまざまに描かれてきました。古来、星は人々に何かを告げるしるしと考えられていました。占星術師は天体を観察し、世界情勢や将来に関するサインを読み、重要な助言を与える存在でした。主イエス・キリストがお生まれになったとき、特別な星のサインが現われ、これを見た東方の学者たちはベツレヘムの小さな町で幼子イエスと出会った、と聖書は伝えます。  多くの人が新しい王の誕生を告げる星を見ていました。中にはそのサインの意味を解読できた人たちもいたはずです。しかし、この星を見た人々の中で、実際に立ち上がって遠い旅に出かけたのは彼らだけでした。新しい王の誕生は皆に示されていました。でも、立ち上がったのは彼らだけでした。  彼らが見上げた星は一つのサインです。これは世界中の人に伝えられる一つのニュースと言い換えることもできます。この一年を振り返ると、わたしたちは多くのニュースを見聞きしてきました。わたしたちは、あらゆるサインに気づかぬまま、あるいは気づいても、気づかぬふりをしてそのままやり過ごしてしまうのです。そのように多くの人は星を見、サインを知っても、そのまま通り過ぎます。しかし、この学者たちはそれに応えて出かけて行くのです。東方の学者たちが多くの人を魅了し、憧れの対象として描かれ続ける所以はここにあるのかもしれないと思います。彼らはベツレヘムに到着すると、「幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とあります。すべきことをすべき人にした。たったそれだけの素朴なことを聖書は伝えるのですが、しかし、それができるのはすごいことなのだと思います。  カトリックの作家、若松英輔さんの著作に「賢者の生涯」というエッセイがあります。若松さんの自宅の近くの橋で暮らす初老のホームレスの話です。彼は極寒でも酷暑でも、そこにいました。ある日の仕事帰り、若松さんがこの橋を通りかかったときのことを書いています。彼は段ボールの囲いの中であぐらをかいてじっと外を見ていた。彼の佇まい、その目の輝き

天使の予告 石丸泰信牧師 イザヤ書11章1-10節、ルカによる福音書1章26-38節

説教要旨 12月23日 録音 降誕日礼拝(聖餐式・洗礼式)「天使の予告」 石丸泰信牧師 イザヤ書11章1-10節、ルカによる福音書1章26-38節  クリスマスに、多くの教会はページェント(降誕劇)をします。それは、おそらくクリスマスの出来事が新聞や論文のようにではなく、さまざまな人が登場する物語で伝えられているからです。教会学校でも朗読劇をしました。クリスマスの物語は子どもたち、また、大人たちにも演じられるのを待っています。クリスマスの主は、わたしたちのために来られたからです。  ページェントの主役イエスは多くの場合、人形です。セリフはありません。だからこそ、降誕劇を演じながら主役を忘れてしまうということが起こります。そして劇が終われば主イエスの人形は戸棚の中にしまわれ、来年のクリスマスまで出番はありません。ある人は、もし自分がクリスマスの映画を撮るとしたら、物置にしまわれたイエスの場面から物語を始めたいと言いました。きっとこう言うだろう、と。「わたしを片付けないで。わたしはあなたと共にいる。あなたは共にいてくれるか」。  また、ある人は、わたしたちはクリスマス物語の登場人物になるために、毎年、繰り返し、練習をしているのだと言いました。わたしたちには神に与えられた配役があるのです。受胎告知の場面で、マリアに天使が現れます。そして「あなたは…男の子を産む」と告げます。マリアはまだ10代です。やりたいこと、学びたいこと、思い描く将来があったはずです。しかし、今日言われてしまうのです。「違うんだ、マリア。あなたの生き方はこれだ」。「神の台本はこうだ。『あなたは…男の子を産む』」と。ページェントには人気の役もあれば不人気の役もあります。ある教会幼稚園では、この季節に毎日ページェントをするそうです。毎日交替でいろいろな役をして、本番はないそうです。けれども、もし本番があったならば、本番で好きな役をもらえないということが起こります。わたしたちもそうです。皆がマリアではなく、皆が博士でもありません。自分の希望とは違う配役への変更を言い渡されるときがあるのです。  ニューヨークのリハビリテーションセンターに残された「病者の祈り」という祈りがあります。「大きなことを成し遂げるために、力を与えて欲しいと神に求めたのに、謙遜を学ぶように、弱いものとされた。より偉大なことができるように、

沈黙の時 石丸泰信牧師 ゼファニア書3章14-18節、ルカによる福音書1章5-25節

説教要旨 12月16日 録音 主日礼拝 「沈黙の時」 石丸泰信牧師 ゼファニア書3章14-18節、ルカによる福音書1章5-25節  この福音書を書いたルカは「わたしたちの間で実現した事柄」(1:1)を伝えるために筆を執りました。主イエス・キリストの十字架と復活という福音の事柄です。それをどのように描き始めるか。ルカはクリスマス(主イエスの誕生)よりも、もっと前の出来事から始めます。洗礼者ヨハネの誕生の予告。つまり、洗礼者ヨハネの父、母の物語です。  洗礼者ヨハネの父となるザカリアに天使が現れ、男の子の誕生を告げたとき、彼は神殿の聖所にいました。ザカリアは祭司です。しかし、いざ天使に会うと恐怖の念に襲われました。ルカによれば、クリスマスの始まりは一人の正しい老人に訪れた喜びの知らせです。しかし、それは聞いて信じた人の物語ではなく、信じられず、口が利けなくなってしまった人の物語です。大きな救いの前夜が、ここに描かれています。  子どもの誕生はこの夫婦の積年の願いでしたが、ザカリアは言います。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。ザカリアは自分の常識からしか物事を観ることができません。ザカリアは信じられず、口が利けなくなりました。この出来事の後、ザカリアは「身振り」「手振りで」(1:62)会話するしかありませんでした。口が利けないばかりでなく、耳も聞こえなかったのだと思います。おそらく祭司の務めから離れ、静まりの中に身を置きました。しかし、この沈黙は、悔い改めの始まりとなりました。聖書のいう「悔い改め」とは、反省ではありません。向きを変えることです。  犯罪者の更生教育にも用いられる「内観法」という心理療法があります。内観のプログラムは、一週間、何もないところで過ごし、自らの生い立ちや過去を顧みて書き出していきます。内観で、虐待事件を起こした母親が、幼少時、自分は親に大切にされなかったと語ることがあります。しかし、丁寧に問い直す過程で、親は自分のためにいろいろなことをしてくれていたことに気が付くというケースがあります。問題を誰かのせいにし、因果に囚われている状態から解放されるのには、自身を見つめ直す時間が必要です。わたしたちは自分の価値観や常識を正しいと信じているので、それ以外のものが信じられません。造り上げ

旧約における神の言 石丸泰信牧師 イザヤ書55章1-11節、ルカによる福音書4章14-21節

説教要旨 12月9日 録音 主日礼拝 「旧約における神の言」 石丸泰信牧師 イザヤ書55章1-11節、ルカによる福音書4章14-21節 「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない」。イザヤ書に収められるこの神の言葉を語ったのは、無名の預言者です。「イザヤ書」は預言者イザヤが書いた書物ですが、40章以降は「第二イザヤ」と呼ばれ、このイザヤとは別の人物による預言と言われています。実際にイザヤ書を開くと、40章以降の時代背景が明らかに異なります。 神に背き続けた神の民に審きが下り、イスラエルは外国の侵略に遭い、おもだった人たちが異教の地に連行されました。バビロン捕囚です。イザヤは神の審判を語りますが、同時に、この苦役に終わりが来るということも告げています。イザヤは、しかし、捕囚の終わりを見ることなく死にました。イザヤ書40章以降を記した無名の預言者は、その捕囚の終焉を見た人です。長い苦役の時がいよいよ終わり、神が来られる。かつてイザヤが語った預言が今実現する、と言って「第二イザヤ」が語り始めます。その言葉は、かつて語られた預言が成就した、ということに終わりません。このときのように神はわたしたちを救い出してくださる。人々は救い主を待ち望むようになりました。わたしたち教会は、主イエスこそがキリスト(救い主)として来てくださったことを信じています。 ある礼拝の中で、主イエスはイザヤ書を朗読して言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。わたしが神の言葉の成就だと語られるのです。福音書記者たちは、主イエスにまつわる多くの記事を収めたかったに違いありませんが(ヨハネ21:25)、旧約、特にイザヤ書の預言の成就という視点を意図して記事を選んだように思えます。例えば、主がサマリアの女と語り合う場面では、主ご自身がイザヤの言葉を語ります(ヨハネ4:14)。ヨハネはイザヤ書の「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」という言葉に立って、主の降誕から十字架を伝えます。その福音書を「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)、つまり言は天から地上に来られ、と書き始め、十字架上の主の最後の言葉として「成し遂げられた」(19:3

約束の日 石丸泰信牧師 エレミヤ書33章14-16節、ルカによる福音書21章25-36節

説教要旨 12月2日 録音 主日礼拝 「約束の日」 石丸泰信牧師 エレミヤ書33章14-16節、ルカによる福音書21章25-36節  教会暦の新しい年が始まります。このとき主イエスは命じられます。「身を起こして頭を上げなさい」と。ルカによれば、これは主の十字架前の最後の説教です。エルサレムには改築されたばかりの新しい神殿がありました。ヘロデ王の巨大な権力によって造られたこの神殿には、過越祭の間近で多くの奉納物がささげられていました。人々は神殿を見惚れて口にします。「なんと見事な神殿」。「なんと多くの奉納物」。これに対して主は言われました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(21:5-6)。神殿の柱一つも残らない。あなたがたも滅びる、とまで主は言われます。  新しく会堂建築をしたある教会の献堂礼拝で、この箇所を説教した牧師がいました。完成してひと月も経たない礼拝堂には、会堂建築のために尽力した大勢の人たちが集まっていたそうです。やっとの思いで建てた会堂で、人々は「この教会は滅びる」という言葉を聞いたのです。事実、エルサレム神殿は、紀元70年のエルサレム戦争でローマによって破壊されました。どれだけ多くの献金や労力、また祈りが献げられた建物だとしても、やがては滅びます。けれども、これは主の脅しではありません。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。このことこそが重要です。初代教会の多くはもう現存していません。しかし「わたしの言葉は決して滅びない」。わたしたちは今、同じ主の言葉を聞き続けています。  この教会の建物はやがて滅び、わたしたちも滅びます。にもかかわらず、主は言われます。「身を起こして頭を上げなさい」。「滅び」がすべての終わりではないからです。ここでは「滅び」を「天体が揺り動かされる」と表現しています。普遍的秩序の象徴でもある「天体」が揺らぐということは、この世界の信頼できるものが失われるということです。「天体」が揺らぐ。確かだと信じていたことが崩れ去るような経験をすることがあります。信頼していた人、信頼していた事柄に裏切られることがあります。その現実から逃げるように放縦や深酒の生活に身を任せてしまうことはあるかもしれません。それを聖書は「心が鈍く」なると言います。そればかりが気がかりになり