天使の予告 石丸泰信牧師 イザヤ書11章1-10節、ルカによる福音書1章26-38節

説教要旨 12月23日録音


降誕日礼拝(聖餐式・洗礼式)「天使の予告」 石丸泰信牧師

イザヤ書11章1-10節、ルカによる福音書1章26-38節
 クリスマスに、多くの教会はページェント(降誕劇)をします。それは、おそらくクリスマスの出来事が新聞や論文のようにではなく、さまざまな人が登場する物語で伝えられているからです。教会学校でも朗読劇をしました。クリスマスの物語は子どもたち、また、大人たちにも演じられるのを待っています。クリスマスの主は、わたしたちのために来られたからです。
 ページェントの主役イエスは多くの場合、人形です。セリフはありません。だからこそ、降誕劇を演じながら主役を忘れてしまうということが起こります。そして劇が終われば主イエスの人形は戸棚の中にしまわれ、来年のクリスマスまで出番はありません。ある人は、もし自分がクリスマスの映画を撮るとしたら、物置にしまわれたイエスの場面から物語を始めたいと言いました。きっとこう言うだろう、と。「わたしを片付けないで。わたしはあなたと共にいる。あなたは共にいてくれるか」。
 また、ある人は、わたしたちはクリスマス物語の登場人物になるために、毎年、繰り返し、練習をしているのだと言いました。わたしたちには神に与えられた配役があるのです。受胎告知の場面で、マリアに天使が現れます。そして「あなたは…男の子を産む」と告げます。マリアはまだ10代です。やりたいこと、学びたいこと、思い描く将来があったはずです。しかし、今日言われてしまうのです。「違うんだ、マリア。あなたの生き方はこれだ」。「神の台本はこうだ。『あなたは…男の子を産む』」と。ページェントには人気の役もあれば不人気の役もあります。ある教会幼稚園では、この季節に毎日ページェントをするそうです。毎日交替でいろいろな役をして、本番はないそうです。けれども、もし本番があったならば、本番で好きな役をもらえないということが起こります。わたしたちもそうです。皆がマリアではなく、皆が博士でもありません。自分の希望とは違う配役への変更を言い渡されるときがあるのです。
 ニューヨークのリハビリテーションセンターに残された「病者の祈り」という祈りがあります。「大きなことを成し遂げるために、力を与えて欲しいと神に求めたのに、謙遜を学ぶように、弱いものとされた。より偉大なことができるように、健康を求めたのに、よりよいことができるようにと病気をいただいた。…求めたものは何一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に添わぬものであるにも拘わらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。わたしは、あらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ」。
 自分が思い描いている人生の台本。それが最も良いものだ、それでないとダメだなどと、どうしてわかるのでしょうか。聖書は、もっとすばらしい台本を神が用意していると語ります。わたしたちは時におとぎ話のような、自分が何をしているのかわからないような台本を描きます。そして、その台本を邪魔する人を嫌います。クリスマスに新しい王が生まれるという台本が届いたとき、その台本を変えようとした人がいました。ヘロデ王です。自分の台本通りでないと困るのです。わたしたちも仕事がうまくいかないと悩む。しかし、それは自分の描いていた台本通りでないというだけのことかもしれません。人の振る舞いに戸惑うとき、それは自分の考える配役と違うと感じているのかもしれません。マリアはこの日、描いていた台本をめちゃめちゃにされました。結婚前の女性が婚約者の知らないところで妊娠するというのは悲劇です。しかし、マリアは答えました。「お言葉どおり、この身に成りますように」。不安と恐れを抱えながら、マリアは新しい台本を受け取りました。これは生まれ変わるほどの変化です。マリアは自分の描いてきた台本がダメになっても、もっと良い神の台本に信頼しています。そして、自らの内にキリストを宿す者とされてゆきます。
 ページェントではキリストの役をする人はいません。それは登場人物たちが皆キリストだからとも言えます。マリアはマリアのまま、博士は博士のまま、皆がキリストになるのです。マリアが天使の言葉を受け入れたということは、主イエスを自らの内に受け入れたということです。わたしたちも、クリスマスを終えて、すぐに主をしまってしまうのではなく、自らの内に主を宿して生きる者とされたのです。