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主の選び方 小松美樹伝道師 士師記7章1-7節

説教要旨 8月25日 録音 主日礼拝「主の選び方」小松美樹伝道師 士師記7章1-7節 私が4月に着任してから、教会学校の聖書箇所を主日礼拝で読んでいます。教会学校の子どもたちとその保護者と主日の礼拝とで、同じ御言葉を聞きたいと思っています。 士師記はイスラエルの人々がカナンの地に入った後の200数十年の間、王が立てられなかった間の歴史が描かれています。民を導いて来たモーセ、ヨシュアがいなくなり、指導者を失い、そこに士師が立てられました。イスラエルはカナンの地に定着して、そこで作物を育てます。すると収穫が重要になり、カナンの地で崇められていた農耕の神バアルにイスラエルの人々は惹かれていきます。エジプトから救い出した主を忘れ、バアルを拝む民に士師が立ち上がります。士師記の中でも、ギデオンの物語は特に長く描かれています。この時イスラエルはミディアン人に怯えていました。作物を蓄える季節になると、集団で襲いかかり略奪して行くからです。イスラエルの人々は収穫した作物を隠していましたし、ギデオンが士師として立てられる時も、隠れて小麦を打っていました。群れの中でも貧弱で、家族の中でも年下で、自信のないギデオンを主は選び、ミディアン人との戦いに遣わします。しかし主は「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルは私に向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったというであろう」(7:2)と言い、軍を減らします。その選び方は、まず「恐れおののいている者」を帰らせます。少数精鋭の様ですが、申命記20:8「恐れて心ひるんでいる者はいないか。その人は家に帰りなさい。彼の心と同じように同胞の心が挫けるといけないから。」の言葉から、兵士としての優劣をつけてはいないことがわかります。恐れている者を脅かすのではなく、家に帰すのです。更に主は言われます。「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい」。この水の飲み方で300人が選ばれました。戦いに行くのに、水辺で飛びついて、顔をつけるようにして飲む人は、あまりにも無防備に映るでしょう。子どものようで、警戒心がない。同時に、戦いに行くのに水の飲み方も知らないから、戻される。戦いに行ったら死んでしまうから。主の選り分け方は、差別するよりも、その人を守るために見えます

朽ちないもの 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙15章42-49節

説教要旨8月18日 録音 主日礼拝「朽ちないもの」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙15章42-49節 パウロは体の復活について、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活」すると言います。蒔かれた種から新しい形の芽が出るように、人の復活も新しい体をもって現れる。しかも、今よりも優れたものとして現れる。そのことを「最初の人アダム」と「最後のアダム」という言葉で説明します。この箇所が難解に聞こえる理由は、わたしたちの頭の中に既に死に対するイメージを持っているからだと思います。そのイメージが先行するので、聖書の言葉がわからないのです。 ある18歳の女の子が自動車事故で亡くなりました。彼女には姉がいて、ひどく悲しむ姉を家族は慰めます。「今、あの子は天国にいて幸せだ。ここではいつも不幸せなことしかしてやれなかったから」。「きっと天国から悲しまないでと言っているよ」。姉は、このような甘く、偽善的な言葉に激怒しました。しかし、慰めの言葉を信じられないことに罪悪感を覚えます。あるとき彼女は、教会で次の言葉を聞きます。「最後の敵として死が滅ぼされます」(15:26)。死は最後まで滅ぼされない憎むべき敵であることを知り、彼女は解放されました。 なぜ皆が皆、「死んだら終わり」とか、「死んだら天国で幸せに」というイメージを持っているのでしょう。それは、死という敵に説得されてしまっているのだと思います。強くて太刀打ちできないこの敵に対して、納得できる説明を探すことで自己防衛するのです。こうして死に飼い慣らされたわたしたちに聖書は言います。わたしたちが死に滅ぼされるのではなく、死こそ滅ぼされるべき敵で、この死とキリストが今戦っているのだ、と。 キリストが勝利したとき、わたしたちの体は、朽ちるものから「朽ちないもの」に、卑しいものから「輝かしいもの」に変わるのだと言います。現在の体はいわば「最初の人アダム」であり、弱く、やがて朽ちるものです。しかし、復活の体は「最後のアダム」つまり、キリストと同じようになると言うのです。 「最後のアダム」は「命を与える霊となった」とパウロは言います。天に属する方がクリスマスに世に来られ、十字架で死に、三日目に復活した。そのとき「命を与える霊になった」のです。その主が、死と戦っており、勝利のとき、わたしたちは命に与り、再び生きる者となるのです。今、わ

復活の体 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙15章35-41節

説教要旨8月11日 録音 主日礼拝「復活の体」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙15章35-41節 人間の最大の関心は死だ、とある人は言いました。老後や病気への関心は死に通じます。しかし、死ぬまでのことに関心はあっても、死後のことに関心を払う人はほとんどいません。人の最大の無関心は死であるとも言えるかもしれません。近年、死後の散骨を希望する人が増えています。遺族に墓を負わせたくないという配慮かもしれませんが、うがった見方をすれば死後の体に思いを致すことがないのです。 コリント教会の人々が生きた世界では、ギリシア哲学の霊肉二元論の影響を受け、魂の不滅という思想が一般的でした。わたしたちも体が悲鳴を上げていようと、いつまでも自分の心は若いつもりに思いますし、死後についても、墓の中に納められても霊は天にいるなどと考えます。しかし、実際、体に問題がないのに心が沈んで起き上がれないという苦しさを経験します。心(霊)と体は一つだからです。自分のイメージと事実は異なるのです。だから、パウロも「復活の体」について語るとき、肉体は滅びるが霊は生きる、と考える人々に向かってパウロは「愚かな人だ」と言います。 わたしたちが、死んで灰になった体がどうやって復活するのかと考えているからです。わたしたちは、自分の分からないことについて、自分の常識の範疇でしか考えられません。また、人に対してはだれもが納得できるような説明を求めます。しかし、そうであれば、信仰は必要ないわけです。キリスト者であっても、命については信仰的に考えるのに、死については常識的な思考をします。神に関係あるものとないものを分けて考えます。聖書が語ることよりも自分の思い描くイメージを信頼することに対して、パウロは「愚かな人だ」と言うのです。つまり、パウロは神の業を見て考えよと言いたいのです。 パウロは語ります。「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です」。蒔くと、種は朽ちます。しかし、種から想像もできないような命が生まれます。わたしたちの体もそれと同じだと言うのです。コリントの人々にとって、死者の体は葬りの悲しみの中にあります。しかし、パウロは神の業に照らし、種まきのイメージに結び付けて語ります。種蒔きは、悲しみではなく希望の

新しい出来事の初穂 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙15章20-34節

説教要旨8月4日 録音 聖餐礼拝(主日礼拝)「新しい出来事の初穂」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙15章20-34節 今日の箇所は、歴史的誤訳と言われた言葉を含みます。「あなたがたを恥じ入らせるためです」という言葉です。本来、「恥じ入らす」ではなく「尊敬する」と翻訳すべきなのに、宗教改革者のルター以降「恥じ入らす」と訳されるようになったと言われています。しかし、語源を辿るとは「見直す」という意味で、パウロはコリント教会の人々を見直したのです。評価低く見直せば「恥」。高く見直せば「尊敬」です。両極端な言葉ですが、語源をたどると一つなのです。文脈を見るとパウロの論調は穏やかでないため、率直に「恥ずかしい」との翻訳で正しいでしょう。いずれにしても強い響きを持っています。 コリント教会では復活に対し懐疑的であるばかりか、復活を信じてもいないのに死者と再会するために洗礼を受けようとする人たちがいたということで、パウロは語調を強めて語ります。キリストの復活を「初穂」と表現します。店に初鰹が並ぶと、今年もこの季節が来たのだと感じます。同様に「初穂」は、これから収穫が続くことの最初の知らせです。キリストの復活は、全く新しい出来事の始まりであり、それが続くことを知らせるのです。M・ルーサー・キング牧師が指導した公民権運動は、黒人が差別されて当たり前の社会を大きく変える出来事でした。差別がすぐになくなったわけではありませんが、この出来事がこれまでの常識を覆す決定的な「初穂」となりました。 神学校時代の先生が、あるときこんなことを言っていたのを思い出します。「ああ、どうしてわたしは貧乏なんだろう」。続けて言いました。「一人ひとり違うって当たり前。貧乏な人も、お金持ちの人もいる。それなのに、どうしてと思うのは、人は神の前に平等だということを体が知っているからだと思う」と。貧しい生き方を選んだと頭で理解していても、聖書を開くと体が思い出すというのです。神の前に等しく造られたはずなのに「なぜ」と疑問を持つ。これまでの当たり前の在り方に違和感を持つようになり、もう後戻りできなくなる。全く新しい出来事が自らの内に入ってきたからです。聖書はそれを「初穂」と表現します。 当時、ヘレニズム世界では人の体は死ねば滅びると考えられていました。ギリシア哲学の霊肉二元論の影響を受けた人たちは、精神的なもの