朽ちないもの 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙15章42-49節

説教要旨8月18日録音


主日礼拝「朽ちないもの」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙15章42-49節
パウロは体の復活について、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活」すると言います。蒔かれた種から新しい形の芽が出るように、人の復活も新しい体をもって現れる。しかも、今よりも優れたものとして現れる。そのことを「最初の人アダム」と「最後のアダム」という言葉で説明します。この箇所が難解に聞こえる理由は、わたしたちの頭の中に既に死に対するイメージを持っているからだと思います。そのイメージが先行するので、聖書の言葉がわからないのです。
ある18歳の女の子が自動車事故で亡くなりました。彼女には姉がいて、ひどく悲しむ姉を家族は慰めます。「今、あの子は天国にいて幸せだ。ここではいつも不幸せなことしかしてやれなかったから」。「きっと天国から悲しまないでと言っているよ」。姉は、このような甘く、偽善的な言葉に激怒しました。しかし、慰めの言葉を信じられないことに罪悪感を覚えます。あるとき彼女は、教会で次の言葉を聞きます。「最後の敵として死が滅ぼされます」(15:26)。死は最後まで滅ぼされない憎むべき敵であることを知り、彼女は解放されました。
なぜ皆が皆、「死んだら終わり」とか、「死んだら天国で幸せに」というイメージを持っているのでしょう。それは、死という敵に説得されてしまっているのだと思います。強くて太刀打ちできないこの敵に対して、納得できる説明を探すことで自己防衛するのです。こうして死に飼い慣らされたわたしたちに聖書は言います。わたしたちが死に滅ぼされるのではなく、死こそ滅ぼされるべき敵で、この死とキリストが今戦っているのだ、と。
キリストが勝利したとき、わたしたちの体は、朽ちるものから「朽ちないもの」に、卑しいものから「輝かしいもの」に変わるのだと言います。現在の体はいわば「最初の人アダム」であり、弱く、やがて朽ちるものです。しかし、復活の体は「最後のアダム」つまり、キリストと同じようになると言うのです。
「最後のアダム」は「命を与える霊となった」とパウロは言います。天に属する方がクリスマスに世に来られ、十字架で死に、三日目に復活した。そのとき「命を与える霊になった」のです。その主が、死と戦っており、勝利のとき、わたしたちは命に与り、再び生きる者となるのです。今、わたしたちは「最初のアダム」です。しかし、将来「最後のアダム」、つまり命を与えるキリストのようになると約束されています。わたしたち自身が、将来、命を与える存在になると言うのです。
人は、今生きている先に将来があるのではなくて、本当はその将来に引っ張られながら、今を生きているのだと思います。そうであるならば、「死んだらお終い」とか「死んだら天国で見守る」などといったイメージは、今を生きる上でいったい何の力になるのでしょう。将来が分からないから勝手にイメージをするのであれば、今のこともわからなくなります。聖書は、わからないわたしたちに言います。あなたは命を与える者になるのであり、今がその種なのだ、と。
やなせたかしは、自らの従軍経験をもとに「アンパンマン」という作品を残しました。人間の正義がいかに逆転しやすく、信頼ならないものかを味わった戦争経験から生まれたこの作品について、次のように記しています。「アンパンマンは自分の顔を食べさせることによって、いろんな人を助けます。その時、アンパンマンはなくなりますが、アンパンマンの命は、食べさせることによって生きるのです。だから、アンパンマンは何度でも生きかえってきます」。キリストのように命を与えるという種を、わたしたちも持っていることを伝えようとしたのだと思います。
「死ぬまでにしたい10のこと」を実現するとか、自分のやりたいことのために生きることも悪くないかもしれません。でも、その先にどのような将来を描けるでしょうか。何に引っ張られて今を生きているのか、わたしたちは時に立ち止まりたいと思います。だれかのためにしていることによって、実は自分が支えられているということに気づくこともあります。そこで蒔く、小さな自分の命は、将来まで、決して朽ちるものではないことにも目を留めたいと思います。