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聖書の発見 石丸泰信牧師 列王記下23章1-7節

説教要旨 11月24日 録音 主日礼拝「聖書の発見」 石丸泰信牧師 列王記下23章1-7節 神殿で聖書を発見した時の話を聞きました。神殿のリフォーム工事をしている時、律法の書を見つけます。当時の王ヨシヤは人々を集めて読み聞かせ、そして衣を裂いて泣きました。今の神殿が聖書と全然違う姿になっていたからです。彼はバアル、アシュラの像を片付け、街に建てられていた、天体などに祈りを捧げる場所・聖なる高台を撤去しました。そして主の契約の言葉を実行することを誓いました。この時の様子は、教会の礼拝堂から十字架を取り外して、他の像を飾っていたようなものです。聖書を片付け、礼拝も廃止されていた。わたしたちも水害の際、ずっと開けていなかった納戸を整理して、懐かしいものが沢山、出てきました。ヨシヤ王たちも、どういう経緯でのリフォーム工事かは分かりませんが、納戸や屋根裏から律法の書・聖書が出てきたわけです。そして、今の状態に心を痛め、一斉に元に戻した。ヨシヤの宗教改革の始まりです。 どうして宗教改革が必要なのでしょう。自分ではちゃんとやっているつもりでも、いつの間にか違うことをしてしまっていることがあるからだと思います。聖書には「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです」(テトス1:16)。という言葉があります。神を信じていると言いつつ、気が付いたら神を悲しませることばかり行っている。 最近、蛙のことを聞きました。蛙は動いているものしか見えないそうです。目の前に餌になる虫がいても、動かないかぎり見えない。動いた途端、見えるようになり飛びつくのだそうです。わたしたちも、そういうところがあるのだと思います。本来、不思議な事も、だって普通でしょという言葉によって疑問すら持たなくなります。本当は考えないといけないことも風景のようになって見えなくなってしまう。聖書の言葉もそうです。いつの間にか風景の中に綺麗に溶け込んで、消えていってしまう。自分はキリスト者ですと公言しながら、聖書の言葉は納戸にしまってしまうんです。 神学校でもそうでした。わたしが寮長を担っているとき、寮のトースターが無くなりました。会議を開き、様々な意見が出ましたが、犯人捜しを辞めることは出来ませんでした。けれども、Ⅰコリントの手紙の言葉に出会います。「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなた

神は流した涙も数えられる 石丸泰信牧師 列王記下20章1-11節

説教要旨 11月17日 録音 主日礼拝「神は流した涙も数えられる」 石丸泰信牧師 列王記下20章1-11節 「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」。この言葉をどう思うでしょうか。多くの人が、いやいや、そんなはずはないと言って打ち消すと思います。これと同じ問いを高校の授業で行うことがあります。「10日後、あなたの命は取られる。さあ、どうしますか」。多くは、受験をやめる。学校を休むと答えます。そして、今まで貯めていたお金を使い切るとか、会いたい人に会いに行きたいという生徒もいます。時間がないから手紙を書く。あと10日後ではできないことばかりが浮かんで悔しい、など。皆、死を身近に感じた途端、次々にやりたいことが出てきます。死を覚えないで生きていた今までの生き方ではいられないことに気が付きます。しかし「おそらく10日後も命はあるから、全部できるね」というと口を揃えて言います。「しません」と。 しかし、ヒゼキヤ王へのこの言葉は、リハーサルの告知ではなく、本番の告知でした。彼は祈ります。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心を持って御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」この祈りに偽りはありません。彼は歴代の王の中でも優れて善い王でした。彼は大いに泣きました。ところが、この祈りと涙に主は応えてくださいました。「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た」。そして、15年の命を加えてくれました。本番の告知が、リハーサルで済み、15年の猶予を与えられたわけです。 不思議な場面だと思います。神は「涙を見た」といわれます。もちろん祈りも聞かれましたが、強調点は涙にあります。そして、あなたの祈りの故にではなく、「わたしはわたし自身のために」守り抜くと続きます。わたしたちは神に何かを願うとき、自分はこんなに頑張ってきたのだからと言って、自分の善い行いを持ち出します。けれども、神さまとは取引できないのだと思います。主イエスは「正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言います(マタイ5:45)。あなたが善いことをしてきたから憐れもう、正しくなかったから赦さない。そういう方ではありません。けれども、主は私たちの流す涙、その一つひとつを侮られません。取引する時は嘘をつけます。嘘の誓いもできる。しかし、涙は嘘をつけ

信じているから、やってみよう 小松美樹伝道師 列王記下5章1-14節

説教要旨 11月10日 録音 合同礼拝(主日礼拝)「信じているから、やってみよう」小松美樹伝道師 列王記下5章1-14節 いつも教会学校に来ている子どもたちと一緒に礼拝を捧げています。教会学校でも主日礼拝でも、今は同じ聖書の箇所で、旧約聖書を読んで礼拝をしています。 今日は、生き方が変わった人の話です。軍司令官のナアマンは国との戦いで勝利して、国の一番偉い人に気に入られていました。しかしナアマンには重い皮膚病がありました。軍司令官という力と強さを持ちながら、皮膚病で全身を包帯で巻いて生活をしていました。映画のもののけ姫にはハンセン病の人が描かれ、全身包帯で覆っています。病により、周りの人々から人として扱われないような中、村を収める人に匿われ、役割が与えられ、人間として扱ってもらえたことを話している場面を思い出します。 イスラエルで捕虜にした少女から、ある預言者のところへ行けばきっと病を治してもらえるという話しを聞いて、預言者エリシャに会いに行きました。エリシャの家に来てみると、なぜだかナアマンは怒っています。エリシャは家から出てこないで、使いの人がナアマンに、「ヨルダン川で体を洗いなさい。そうしたら治る」と伝言しました。ナアマンの怒るのもわかる気がします。これまできっと沢山のお医者さんにも診てもらってきたのだと思います。治したくて一生懸命だったから。友人でもなんでもない、召使いの女の子の言葉に、望みをもって来てみたのに、エリシャは会ってもくれないし、見もしない、触りもしない。しかしエリシャがナアマンに対して冷たい態度だったかどうかより、もっと大きなところに目を向けて行くのがこの出来事です。救いは自分が思いとはもっと違うところから来るということです。ナアマンは、そんなわけあるか!とエリシャの言ったことを信じないで、やろうとしませんでした。しかし、そこにはナアマンの家来の「できないことではない。やりましょうよ!」という言葉がありました。ナアマン一人ではできなかったのです。信仰生活とはそういうものだと思います。 軍司令官が部下の意見聞くのはすごいことだと思います。信頼されていたし、信頼もしていたのでしょう。そしてナアマンの病は癒されました。思いもかけない方法で救われました。自分の思いがけない形で救いがやってきた。ナアマンはそのことを後から知ったのです。私たちは今知らされて

地の塩、世の光 石丸泰信牧師 マタイによる福音書5章1-16節

説教要旨 11月3日 録音 永眠者記念礼拝(主日礼拝)「地の塩、世の光」石丸泰信牧師  マタイによる福音書5章1-16節 永眠者を記念するこの礼拝において、まず憶えたいことは、永眠者名簿に記される方々が、わたしたちと同じように礼拝者であったということです。彼らもまた、日曜日には、同じようにこの場所で讃美歌を歌いました。なぜわたしたちはこうして変わらず礼拝するのでしょう。ここに他の場所では聞くことのできない言葉、出会うことのできない出会いがあるからだと思います。 マタイ福音書から、主イエスの最初の説教の一節を聞いています。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。そこに集まった大勢の人に目を向け、主は「幸い」を宣言されます。ある人は、これを「メシアとしての就任演説」だと言います。就任時にぜひこれは伝えておきたいと思う言葉。それが、主イエスの幸いの宣言だと言うのです。 この説教は、当時の人々に、また信仰の先達たちに、そして今を生きるわたしたちに向けられた言葉です。この言葉を聞くとき、主が信仰の先達たちをどのようにご覧になっていたかを覚えることができます。主は言われました。「あなたがたは幸い」と。そして、「あなたがたは地の塩である・・・世の光である」と。 「塩」も「光」も、無くてはならないものです。しかし、どちらも普段は感謝するほどのものではありません。無くなってみて始めてありがたさを感じます。塩が無いことに気がつけば料理の手は止まります。突然の停電に遭って初めて急に不安になります。主イエスは、「あなたも同じ」と言うのです。いつもは目立たないけれども、いなくなって初めてその存在の大きさに気づかされる。ないと困る。それが彼らであり、あなたたちなのだ、と。離れてみて、失いかけて、初めて大切だと気づく存在があります。 ある人が次のような話をしていました。宝石は光がなければただの石ころなのに、人は宝石ばかりを見、光を賛美しない、と。光を気に留める人はいません。しかし、主イエスは、わたしたちがその光なのだと言うのです。その役割は目立たないけれども、人のよさを引き出す光なのだ、と。これが主の最初の宣言でした。しかも、主は「地の塩」「世の光」なのだと言います。あなたがこの地上に必要な塩。この世の良さを引き出す光ということです。聖書は、時に言い過ぎではないかと思う