神は流した涙も数えられる 石丸泰信牧師 列王記下20章1-11節

説教要旨 11月17日 録音


主日礼拝「神は流した涙も数えられる」 石丸泰信牧師


列王記下20章1-11節
「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」。この言葉をどう思うでしょうか。多くの人が、いやいや、そんなはずはないと言って打ち消すと思います。これと同じ問いを高校の授業で行うことがあります。「10日後、あなたの命は取られる。さあ、どうしますか」。多くは、受験をやめる。学校を休むと答えます。そして、今まで貯めていたお金を使い切るとか、会いたい人に会いに行きたいという生徒もいます。時間がないから手紙を書く。あと10日後ではできないことばかりが浮かんで悔しい、など。皆、死を身近に感じた途端、次々にやりたいことが出てきます。死を覚えないで生きていた今までの生き方ではいられないことに気が付きます。しかし「おそらく10日後も命はあるから、全部できるね」というと口を揃えて言います。「しません」と。
しかし、ヒゼキヤ王へのこの言葉は、リハーサルの告知ではなく、本番の告知でした。彼は祈ります。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心を持って御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」この祈りに偽りはありません。彼は歴代の王の中でも優れて善い王でした。彼は大いに泣きました。ところが、この祈りと涙に主は応えてくださいました。「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た」。そして、15年の命を加えてくれました。本番の告知が、リハーサルで済み、15年の猶予を与えられたわけです。
不思議な場面だと思います。神は「涙を見た」といわれます。もちろん祈りも聞かれましたが、強調点は涙にあります。そして、あなたの祈りの故にではなく、「わたしはわたし自身のために」守り抜くと続きます。わたしたちは神に何かを願うとき、自分はこんなに頑張ってきたのだからと言って、自分の善い行いを持ち出します。けれども、神さまとは取引できないのだと思います。主イエスは「正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言います(マタイ5:45)。あなたが善いことをしてきたから憐れもう、正しくなかったから赦さない。そういう方ではありません。けれども、主は私たちの流す涙、その一つひとつを侮られません。取引する時は嘘をつけます。嘘の誓いもできる。しかし、涙は嘘をつけません。取引のために泣きません。あの人のこと、悔しいこと、命のことの為に泣きます。その涙を神はご覧になる。そして、ヒゼキヤは命を得ました。
これからどう生きるでしょう。取引して勝ち得た命ではない。与えられた命です。ヒゼキヤは癒やされたとき、国を挙げて感謝しました。しかし、長くは続きませんでした。続きがあります。ヒゼキヤの病気を聞いてバビロニアの大使が見舞いに来たとき、彼は自分の健康と国の宝物を自慢してしまうのです(20:12-)。その後のことが17節に書かれています。「王宮にあるもの・・・が、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る」。彼が命の告知をされたとき、地位や財産があっても全て空しいことを痛感しました。しかし、兵を動かすほどの財力を人に誇ることを辞められなかったのです。
シェリー・チェイプンという末期患者を中心に伝道をしている女性がいます。この人は、病とは、苦痛の体験を通して人生にとって最も貴重なレッスンを学ぶ時なのだと言います。そのレッスンとは、一時的なものと永続的なものとを区別することです。言い換えれば、本当に大切なものとそうでないものとを区別するということです。そして、自分の人生の土台を大切ではないものの上に据えてはいけないということだと思います。ヒゼキヤの涙は真実です。しかし、その区別を学ぶことは出来ませんでした。多くの生徒が「しません」と答えましたが、それは笑い話のようで、わたしたちの真実だと思います。
「生きる道しるべ」(ナンシー・シムズ)という詩があります。最初と最後だけですが紹介します。「人と比較することで、自分をむやみに低く評価してはいけません。私たち一人ひとりは違っていて、それぞれに特別なのですから。 人が大切だと定めることに、自分の目標をおいてはいけません。なぜなら、自分にとって何が一番良いかを知っているのは自分だけだからです。 自分にとって大切なものが当たり前にあるように思ってはいけません。それらなしでは、人生は無駄であると思うほど、大切にしましょう。過去にこだわってばかりで、未来を望むばかりで、人生を取り逃がしてはいけません。1日を一生懸命生きることは、すべての自分の人生を一生懸命生きることに繋がります。・・・どのような人生を歩んできたのか、これからどのように人生を歩んでいくのかが分からなくなるほど、走るように人生を歩んではいけません。人生は競争ではありません。人生とは、その中で起るすべてのことを味わいながら、歩む旅なのです」。主が小さな涙であっても数えていてくださるように、わたしたちも、大切なものを数え上げ、忘れてしまっても、日曜日の朝ごとに礼拝の席で思い出したいと思います。