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12月, 2019の投稿を表示しています

言は肉となった 上竹裕子先生 ヨハネによる福音書1章14-18節

説教要旨 12月29日 録音 主日礼拝「言は肉となった」上竹裕子先生 ヨハネによる福音書1章14-18節 クリスマスの神秘を、ヨハネは次のように語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。神の言なるキリストが、「肉」をまとってこの地上に来られた、と。古来教会はこれを「受肉」という特別な言葉で伝えてきました。「肉」とは、特定の肌色、輪郭、重さを持つ、血の通った人間を意味します。 「受肉」はクリスマスに留まる出来事ではなく、主イエスが生涯にわたる歩みの中で実現されたものです。主はその言葉の通りに生き、そして死なれました。 あるとき、主は言われました。「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」(マタ5:43~44)と。不可能に思える言葉です。しかし、主は事実その最期に、十字架上で祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。主は自分を十字架につけた人々を愛することをやめませんでした。この一部始終を見ていた人は、こう告白せずにはいられませんでした。「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)。後に弟子たちも気づきました。「ああこの方こそ、人となった神の言なのだ」と。ヨハネはこのことを福音書に書き留めました。 わたしたちの歴史の中で、信仰者のモデルとされてきた多くのキリスト者がいます。その人々の生き方の手本を通して、聖書の鍵となる言葉に光を当てることができると、カトリックの神学者ハンス・フォン・バルタザールは言いました。彼は、キリスト者たちの全生涯はしばしば、聖書の一つの節か一つの物語を生きたものとしてみることができると言います。 例えば、アメリカの公民権運動の指導者となった牧師、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、旧約の預言者アモスの言葉を説教しました。「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ」(アモ5:24)。彼は身をもってこの言葉に生きました。コルカタのスラム街で「死を待つ人々の家」をつくり、貧者の中の最貧者に仕えたマザー・テレサ。彼女は、あるとき主イエスの声を聞きました。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタ25:31~46)。マザーは、その生涯を「最も小さい者の一人」と共に歩み続けることにささげました。 歴史の

喜びの知らせ 石丸泰信牧師 ルカによる福音書2章1-20節

説教要旨 12月22日 録音 クリスマス礼拝(主日礼拝、聖餐式)「喜びの知らせ」石丸泰信牧師 ルカによる福音書2章1-20節 大切な知らせを真っ先に誰に伝えるでしょうか。それは共に喜び、悲しんでくれる愛する者に伝えるのだと思います。神にとってイエス・キリストの誕生は、わが子の誕生でありました。その重大ニュースをいったい誰に最初に伝えるか。それは祭司でも、律法学者でも、王でもなく、「羊飼い」でした。 羊飼いと聞くと、頼もしい指導者というイメージがあるもしれません。モーセもダビデも羊飼いでした。しかし、当時のイスラエルの羊飼いは違いました。羊は自分の所有ではなく、主人から預かって世話をしていました。休みもなく、安息日も守れない。周りからも蔑まされる生き方でした。彼ら自身、もう自分たちは神には見放されていると思っていたと思います。その彼らに天使を送り、真っ先に知らせたというのは、紛れもなく神の私たちに対する愛のメッセージだと思います。 そして、その喜びの知らせは、今度はマリアのところに届けられます。彼女もまた、喜びの知らせを必要としていた人でした。彼女がベツレヘムに来ていたのは自分の意思ではありません。皇帝が勅令を出したからです。「ナザレ」から「ベツレヘム」まで160キロほど。臨月の女性が移動する距離ではありません。けれども、そうはいきませんでした。ナザレは小さな町。結婚前に身ごもったという噂はすぐに広まっていきます。独り残されたらどんな目に遭わされるか。ヨセフは置いていけませんでした。「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」といいます。当時の家の間取りはワンルームだったそうです。そこは客間としても使われましたが出産をする部屋はなかった。当時の環境に流されるように飼い葉桶に来たのです。マリアは、ある意味では当たり前の風景の中にいました。自分の願いや意志とは関係なく、何かが起これば、それまでの生活を変えなくてはならない。それは私たちにも起こり得ることです。それがこの世に生きるということだからです。  マリアの下に天使が来たのは1年前です(1:26-)。それから特別なことは起こりませんでした。神の子を宿したが故に、勅令から免れたり、宿にキャンセルが出て泊まれるようになった。そんなことは起こらない。起こるべくして起こることがマリアにも起こっただけの日々でした。マリア

幸せな家族? 小松美樹 伝道師 マタイによる福音書1章18-25節

説教要旨 12月15日 録音 「幸せな家族?」 小松美樹 伝道師 マタイによる福音書1章18-25節 第3のアドヴェントを迎えました。マタイが伝えるイエス・キリストの誕生は、イザヤの預言の成就として描かれています。「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」とは、旧約聖書に書かれていることの成就を言っています。それは「聖霊によって」起きたのです。使徒信条の「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」と告白しているのは、この聖霊によって起きた出来事です。    クリスマスの知らせは、夫婦になろうとする二人に受け入れがたい衝撃としてやってきました。婚約中のマリアが身ごもり、夫のヨセフは「正しい人であったのでマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。婚約をしているということは、公になっていて、親戚や村の人たちがすでに知っていることになり、ヨセフの、密かに縁を切るということはできるものでは無かっただろうと言われます。  ヨセフに「あの預言にある、救い主が生まれる」と告げたであろうマリアの言葉よりも、結婚前に妊娠したという事が大きな問題として目の前にありました。ヨセフはマリアの妊娠を受けて「ひそかに縁を切ろうと決心した」。しかし、決心しながらも迷いがあり思い巡らす日々でした。最悪の事態でありながら、マリアのその不可解な言葉に迷い、眠れない思いを抱えていたかもしれません。迷いの中にあるヨセフに天使が現れ、事の背後に聖霊が導いておられることが知らされました。  ヨセフは正しい人であり、誠実であるからこそ、縁を切ること、表ざたにしないことを決めたのでしょう。しかしそれではヨセフは律法に正しくはありません。聖書の言う「正しい人」は律法に正しい人のことです。そうであるなら、結婚前のマリアの妊娠というのは、石打ちの刑に処せられる(申命記22:23)あるいは、離縁状を書いて家を去らせることができます(申命記24:1)。 しかし、そうはしない所にヨセフの人柄が見えます。ヨセフの決心は周りからは認められるものだったかもしれません。それでも迷っていたというのは、マリアへの愛のない正しさであるからだと思います。法に正しく裁こうとする時、愛を持って裁くことが出来ないのです。ヨセフは世の中の正しさではない方法が求められていました。律法に正しく

静かなアドヴェント 石丸泰信牧師 ルカによる福音書1章57-66節

説教要旨 12月8日 録音 「静かなアドヴェント」 石丸泰信牧師 ルカによる福音書1章57-66節 第二アドベントを迎えました。アドベントの語源を辿るとアド(to)ベント(come)というラテン語の言葉でできています。一つの方向に何かが来る。つまり、神が人となって世に来られるのを待ち望む、期待感のある言葉です。そこからアドベンチャーという言葉もできました。冒険。未知との出会いです。未知との出会いというものが、どこか違う場所に行かなければ起らないというのであれば、行きたい人だけ行けば良い。しかし、原意は、ここに、何かが起こってくる。思いがけないことが自分の目の前に現れる。そういう意味の動詞です。そうであれば、誰にでも起こりうるし、その時のために、受け止める勇気と信頼する心が思いが求められるものだと思います。なぜか。新しい出来事として何かが起るというのは、良いことばかりではないからです。むしろ、大変なことが多い。新しい命があれば、別れがあります。痛みややめることなどもそうです。そういう意味でいえば、この一年も、いくつものアドベンチャーに巻き込まれたのではないかと思います。 しかし、教会は必ずしも良いことばかりが来るわけではないのに、それを思い起こす季節としてアドベントを大切にしてきました。その理由は、私たちにとって不測の事態であっても、そこに神の手が働いているという信頼があるからです。その出来事の渦中では、神の手が働いているなんて信じられないかもしれない。けれども、落ち着いて振り返って見ると、それが分かるかもしれません。そのために毎年、この季節があるのだと思います。今日の箇所の最後と「この子には主の力が及んでいたのである」という言葉は、他の訳では「主の御手が彼と共にあったからである」となっています。このザカリアの出来事には大変なことがあった。しかし、その背後には主の御手があったのだとルカは受け止めているのです。 洗礼者ヨハネの誕生までは大変な出来事が続きました。ザカリアには天使の予告がありました。それにしても天使の予告というのは不思議だと思います。天使ガブリエルはマリアにも予告をしています(1:26-)。「あなたは身ごもって男の子産む・・・神にできないことは何一つない」。マリアは結婚していないのに男の子を身ごもる。ザカリアの妻エリサベトも、もう子を産む年齢ではないのに男

マリアの困惑と決心 石丸泰信牧師 ルカによる福音書1章26-38節

説教要旨 12月1日 録音 「マリアの困惑と決心」 石丸泰信牧師 ルカによる福音書1章26-38節 アドベントを迎えました。教会の暦では新しい一年の始まりです。しかし、今の季節はむしろ、この1年を振り返ることの方が多いのではないかと思います。キリスト者の歴史の見方は2つあります。一つは直線的。今年は主の時2019年。来年は2020年という様に戻ることのない歴史。いわば、救済史です。しかし、教会の暦は円環的です。今年迎えたアドベントは去年にもありました。この二つの時の中を生きることが大事なのだと思います。マルコ福音書は独特な終わり方をしています。主イエスの「ガリラヤで会おう」という言葉で終わる。ガリラヤは最初に弟子たちが主に出会った場所です。つまり、読み終わると、もう一度そこに戻って読み返すことを求めているのです。何度も読むとき、最初には分からなかった主の言葉が深く理解できるかも知れません。それと同じように、新しい直線的な1年を経験して、再び、アドベンを迎えることは、今の自分を深く知ることに繋がっていくのだと思います。 ルカ福音書の始まり方も独特です。最初を読むとテオフィロという人物に宛てた手紙だということが分かります。想像してみてください。ある日、手紙が届いて、開いてみると、今日の聖書の言葉が書いてある。このアドベントの時期に、そういう手紙が届いた理由は何だろうかと思います。 マリアは天使に「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言われ、出産を予告されます。マリアには婚約者がいました。それなのに、夫ではない子どもを宿すと言われる。とても、喜べなかったと思います。ユダヤは小さな町でした。待っているのは人々からの軽蔑の視線です。けれども、彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と受け入れました。どうしてこう言えたのか。もちろん、マリアが小さな頃から聞いてきた旧約の預言。その成就に自分が選ばれたのだと受けとめた。そう考えることも出来ます。しかし、本当は、震えながら、そう答えたことをもう後悔していたのではないかと思います。なぜなら、マリアは、このあと、急いで「親類のエリサベト」の家に行くからです。同じ天使の受胎告知を受けた女性。マリアにとって唯一の理解者と思ったのでしょう。彼女はそこで3ヶ月の間、滞在したと言います(1:56)。別