喜びの知らせ 石丸泰信牧師 ルカによる福音書2章1-20節

説教要旨 12月22日 録音


クリスマス礼拝(主日礼拝、聖餐式)「喜びの知らせ」石丸泰信牧師

ルカによる福音書2章1-20節

大切な知らせを真っ先に誰に伝えるでしょうか。それは共に喜び、悲しんでくれる愛する者に伝えるのだと思います。神にとってイエス・キリストの誕生は、わが子の誕生でありました。その重大ニュースをいったい誰に最初に伝えるか。それは祭司でも、律法学者でも、王でもなく、「羊飼い」でした。 羊飼いと聞くと、頼もしい指導者というイメージがあるもしれません。モーセもダビデも羊飼いでした。しかし、当時のイスラエルの羊飼いは違いました。羊は自分の所有ではなく、主人から預かって世話をしていました。休みもなく、安息日も守れない。周りからも蔑まされる生き方でした。彼ら自身、もう自分たちは神には見放されていると思っていたと思います。その彼らに天使を送り、真っ先に知らせたというのは、紛れもなく神の私たちに対する愛のメッセージだと思います。 そして、その喜びの知らせは、今度はマリアのところに届けられます。彼女もまた、喜びの知らせを必要としていた人でした。彼女がベツレヘムに来ていたのは自分の意思ではありません。皇帝が勅令を出したからです。「ナザレ」から「ベツレヘム」まで160キロほど。臨月の女性が移動する距離ではありません。けれども、そうはいきませんでした。ナザレは小さな町。結婚前に身ごもったという噂はすぐに広まっていきます。独り残されたらどんな目に遭わされるか。ヨセフは置いていけませんでした。「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」といいます。当時の家の間取りはワンルームだったそうです。そこは客間としても使われましたが出産をする部屋はなかった。当時の環境に流されるように飼い葉桶に来たのです。マリアは、ある意味では当たり前の風景の中にいました。自分の願いや意志とは関係なく、何かが起これば、それまでの生活を変えなくてはならない。それは私たちにも起こり得ることです。それがこの世に生きるということだからです。  マリアの下に天使が来たのは1年前です(1:26-)。それから特別なことは起こりませんでした。神の子を宿したが故に、勅令から免れたり、宿にキャンセルが出て泊まれるようになった。そんなことは起こらない。起こるべくして起こることがマリアにも起こっただけの日々でした。マリアはどんな思いだったかと思います。あの天使はなんだったのか。わからなくなっていたと思います。だからこそ、喜びの知らせが必要でした。神は羊飼いたちに天使。そして、マリアのところには羊飼いを遣わします。そして必要な言葉を伝えました。 本当に人を立ち上がらせる言葉というのは、いつも外からやってくるのだと思います。誰もが人に評価されたくないと思います。それなのに、どうして人の目を気にするのか。それは、自分の本当のことも、また、自分ではない誰かの言葉によってしか知り得ないからだと思います。 クリスマスを迎えても、あるいは神の子を宿しても、わたしたちの前には、当たり前の風景しか見えません。だからこそ、そこに息づく喜び、それを知らせる人が必要です。生まれたばかりの赤ん坊が、飼い葉桶に寝かされるなんて、ちっとも良い話ではありません。 けれども、神は誰かを通して本当のことを伝えようとされるのです。 クリストファーやクリストフという名前があります。この名前は「クリスト・フォロス」から来ています。「キリストを運ぶ者」という意味の名です。聖クリストフと呼ばれるようになった伝説の人物がいました。彼の絵はいつも、少年を肩に載せ、川を渡っている姿が描かれています。クリストフは川の渡し守。橋のない川で人を運ぶ仕事です。ある日、少年が川の向こうに行きたいとやってきます。クリストフは少年を肩に乗せ、渡り始めます。しかし、進んでいく内に肩の上の少年がずしりと重くなっていきます。持っている杖でなんとか踏ん張って川を渡り、振り返ってみると、そこにあったのは急流となった川でした。彼は悟ります。あの時、この少年の重みがなければ、自分は完全に激流に流されていた。渡っている途中は、どうしてこんなに重いんだと思っていた。しかし、その重みに守られていたのです。この少年こそ、キリストとして描かれています。 今年を振り返ってみて、私たちの歩みもまた、急流であったに違いないと思います。しかし、クリスマス礼拝を守ることができたのはキリストの重みです。マリアにとっても天使の言葉を忘れてしまえば、この1年は、ただの重荷。けれども、羊飼いの言葉を聞いたとき、ベツレヘムも飼い葉桶もキリストを宿した重みであること知りました。私たちの毎日も気がつかなければ、ただの重荷。しかし、その重みを知るとき、私たちを日々の当たり前という流れから守ります。クリスマスはキリストの重みを感じるときです。