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愛を追い求めなさい 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙14章1-12節

説教要旨5月26日 録音 主日礼拝「愛を追い求めなさい」 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙14章1-12節 コリント14章には「異言」と「預言」という言葉が出てきます。どうして、こんな話をパウロはしているのか。この手紙は、コリントにある教会から届いた質問に応えるようにして書かれています。このようなパウロの言葉があります。「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」(12:1)。おそらく、霊的な賜物(聖霊からの贈り物)の内、優れているものは何か、何をもとめるべきでしょうかという質問があったのだと思います。それで、賜物は自分ではなく、共同体みなの為にある(12章)と言い、賜物を用いる最高の道は愛であって、愛がなければどんな賜物も無に等しい(13章)、と言っていました。その上で何を求めるか。パウロは異言よりも「預言するための賜物を熱心に求めなさい」と言うのです。このコリント教会では、異言に対する過度の期待があったようです。異言は人の理解を超えた言葉、天使たちと話している言葉だと思われていました。しかし、人に理解できない言葉を皆が礼拝の中で語る。だから、礼拝の秩序は崩れていました。だから、異言よりも預言をと彼は言うのです。 預言という言葉も聞き慣れない言葉です。教会の歴史では、礼拝の説教を指して預言という言葉が使われてきました。けれども、この文脈では、皆が説教者になれということでは無いと思います。もう少し広い意味です。預言者は説教するだけの人ではありませんでした。神の言葉を聞き、その言葉に留まり、生かされて、そして語る人でした。パウロは、一人ひとりが、そのように生きることを求めるべきと言っているのだと思います。 わたしたちの教会の年度聖句「御言葉を行う人になりなさい」も言わんとしていることは同じです。「神の言葉を一心に見つめ、それに留まる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です」。どうしてパウロは「預言するための賜物」こそ、求めよ、つまり、神の言葉を聞いて留まり、それに生きることを求めよと言うのか。それは、わたしたちが他の言葉を聞いて、それに留まり、それに生きてしまうことがあるからです。旧約の十戒の最初に「わたしの他に神があってはならない」という戒めがあります。これをこう言い換えた人がいます。「あなたのこころの一番深いところに私(神)以外

信仰、希望、愛。この三つはいつまでも残る 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙13章4-13節(2)

説教要旨5月19日 録音 主日礼拝「信仰、希望、愛。この三つはいつまでも残る」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙13章4-13節(2) 「愛の讃歌」(Ⅰコリント13章)で「愛は決して滅びない」と歌われています。愛の不変、不滅をだれもが願っています。しかし実際には、あるはずの自分の愛がないことに、あると思っていたあの人の愛がないことに、わたしたちは何度、失望してきたでしょうか。ここで語られているのは、わたしたちから出る愛ではないのだと思います。聖書は「神は愛」(Ⅰヨハネ4:16)だと言います。不滅の愛とは、神ご自身のことです。 これに対して「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れ」と語られています。預言は説教と言い換えることもできます。神の御業を語る説教は変わることなく続けられてきました。しかし、神のみ姿がはっきりと現されるとき預言はもう必要ありません。異言は他人には理解できない言語で神と語ることです。しかし、それも止むだろう。また、神に関する知識も、神ご自身が来られたら意味をなさなくなります。「完全なものが来たとき」、つまり主イエスが来られるとき、今わたしたちが必要としている多くのものは過ぎ去ります。しかし、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と言います。 人は大人になれば子ども時代の思考や話し方を棄てる、と言われていますが(11節)、子どもの考えにハッとさせられることが多くあります。子どもは何でも不思議がって「どうして?」と尋ねますが、大人になれば答えが出ないことについて考えなくなります。 ある人が次のような小学生時代の算数の授業の思い出を話していました。「4つのキャラメルを2人で分けたら一人いくつもらえますか」。みんな「2つ」と答えます。「じゃあ、5つだったら?」と先生。「2つずつで1つ余る」となるはずですが、割り算が初めての子たちは皆黙っていました。その中でこの人は元気に答えました。「喧嘩になる」。いつもお菓子の配分で兄弟喧嘩をしていたからです。クラス中が笑いました。しかし、先生は「君の答えは間違っていない」と言い、答えは必ずしも一つではないし、答えの出ない問題もあると教えてくれたのだと言います。この先生は幼少時に父親を亡くしていました。なぜ父親が自分を残して死んだのか、いくら考えても答えは出ません。 わたしたちの間には、答えの出ない問題がありま

愛は忍耐深い 石丸泰信牧師  Ⅰコリントの信徒への手紙13章4-13節(1)

説教要旨5月12日 録音 主日礼拝「愛は忍耐深い」 石丸泰信牧師  Ⅰコリントの信徒への手紙13章4-13節(1) コリント13章の「愛の賛歌」の箇所を読みました。不思議な語り方だと思います。7つの肯定的な言葉と8つの否定的な言葉でパウロは愛を語ります。「愛は忍耐強い」これは環境に耐えるというよりも、人に対して耐えるという言葉です。相手にどんな態度を取られたとしても、その人を受け入れる強さです。ある人は、この「忍耐」は「赦し」と同じ。愛は赦しだと言いました。パウロ自身、神の赦しを誰よりも受けとめてきた人です。 「愛は情け深い」。これは「親切」という言葉です。自分の機嫌の良し悪しに左右されないで思いを相手に向けること。愛は「ねたまない」。人の成功に自分の機嫌を左右されません。「自慢せず、高ぶらない」。ここから否定的な表現が続きます。自慢する、高ぶることは自分を誇るときに出てくる態度です。しかし、愛はそれとは相容れないと言います。愛の関心は与えること。自己主張ではないからです。「礼を失せず」。相手に失礼な態度を取るのも、自分の存在を重んじて欲しい時に出てくる態度。同じ自己主張です。「自分の利益を求めず、いらだたず」。利益を求めないとは「自分のやり方を通さない」ということです。通そうとして、それが上手くいかないとき、人はいらだちます。しかし、愛は自分のやり方が第一ではありません。そして、愛は「恨みを抱かない」。これは元は会計用語です。記録に止めない。自分の掛けた迷惑は覚えていないのに、人にしてあげたこと、されて嫌だったこと、いちいち覚えて、記録していまいます。しかし、愛はその帳簿を捨てると言います。 そして、肯定的な表現に変わります。「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」。皆が真実よりも損得を喜ぶとき、世界は傾いてゆきます。しかし、愛は「真実を喜ぶ」。この真実とは単なる正義や、わたしたちにとっての正しいことではありません。正義も正しさも時代によって変わります。他方、永遠不滅の真理でもない。もしも、ここで言う「真実」が常に変わらず、冷たくも動かないものであるとしたら、それは唯一、わたしたちが罪人であるという事実だけです。しかし、聖書のいう真実は違います。情熱的で動く真実です。神が、その罪人をなお愛した。これが聖書の証しする生きた真実です。どんなに失礼であろうと不義であろうと妬もうと、

愛がなければ、無に等しい 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙12章31b節-13章7節

説教要旨5月5日 録音 聖餐礼拝(主日礼拝)「愛がなければ、無に等しい」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙12章31b節-13章7節 Ⅰコリントの信徒への手紙の13章は、「愛の章」。あるいは「愛の賛歌」と呼ばれています。もっぱら愛を語る箇所だからです。あまりに美しいため、この箇所は手紙の差出人であるパウロの筆ではなく、誰かの愛の歌を引用したのではないかとも考えられてきました。しかし、聖書の元の言葉を見ると、「わたし」という言葉で何度もパウロ自身が登場しています。「たとえ、(わたしが)人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、(わたしが)預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、(わたしが)山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、(わたしに)愛がなければ、無に等しい。」つまり、パウロは教科書通りの言葉で愛について語っているのではなく、自分自身を告白しながら、彼自身を通して経験した愛について語っているわけです。 先週、教会の資料の準備をしている際、その文面について友人の牧師に相談をしました。どうしたら、もっと良くなるか。あるいはこのままで良いか。すると、その友人からいろいろと指摘されました。文体が相応しくない、文章が長い・・・。沢山のことを言われましたが、わたしの聞きたかったことは何一つ応えてくれませんでした。延々と続くお説教。その時、これか、と思いました。「騒がしいドラ。やかましいシンバル」。確かに正しい。しかし、そこに愛はない。その相手に対して、わたしも愛のない言葉を返しました。普段、愛について語っている牧師たちが、相手の耳元でドラを鳴らし続けたのです。他方、愛に触れることの多い週でもありました。事情があって家族のいない方の火葬のため、ある方と二人で火葬場に行きました。炉に収める前、花を添え、祈りをして、その時を過ごしました。集ったのは二人だけ。遺影も準備できませんでした。余所から見れば、よほど淋しい場面に見えたと思います。しかし、わたしには最も愛に満ちた場所に感じました。この方は家族を得て地上の生涯を終えることが出来たからです。 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」と愛を