信仰、希望、愛。この三つはいつまでも残る 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙13章4-13節(2)

説教要旨5月19日録音


主日礼拝「信仰、希望、愛。この三つはいつまでも残る」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙13章4-13節(2)
「愛の讃歌」(Ⅰコリント13章)で「愛は決して滅びない」と歌われています。愛の不変、不滅をだれもが願っています。しかし実際には、あるはずの自分の愛がないことに、あると思っていたあの人の愛がないことに、わたしたちは何度、失望してきたでしょうか。ここで語られているのは、わたしたちから出る愛ではないのだと思います。聖書は「神は愛」(Ⅰヨハネ4:16)だと言います。不滅の愛とは、神ご自身のことです。
これに対して「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れ」と語られています。預言は説教と言い換えることもできます。神の御業を語る説教は変わることなく続けられてきました。しかし、神のみ姿がはっきりと現されるとき預言はもう必要ありません。異言は他人には理解できない言語で神と語ることです。しかし、それも止むだろう。また、神に関する知識も、神ご自身が来られたら意味をなさなくなります。「完全なものが来たとき」、つまり主イエスが来られるとき、今わたしたちが必要としている多くのものは過ぎ去ります。しかし、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と言います。
人は大人になれば子ども時代の思考や話し方を棄てる、と言われていますが(11節)、子どもの考えにハッとさせられることが多くあります。子どもは何でも不思議がって「どうして?」と尋ねますが、大人になれば答えが出ないことについて考えなくなります。
ある人が次のような小学生時代の算数の授業の思い出を話していました。「4つのキャラメルを2人で分けたら一人いくつもらえますか」。みんな「2つ」と答えます。「じゃあ、5つだったら?」と先生。「2つずつで1つ余る」となるはずですが、割り算が初めての子たちは皆黙っていました。その中でこの人は元気に答えました。「喧嘩になる」。いつもお菓子の配分で兄弟喧嘩をしていたからです。クラス中が笑いました。しかし、先生は「君の答えは間違っていない」と言い、答えは必ずしも一つではないし、答えの出ない問題もあると教えてくれたのだと言います。この先生は幼少時に父親を亡くしていました。なぜ父親が自分を残して死んだのか、いくら考えても答えは出ません。
わたしたちの間には、答えの出ない問題があります。夢に破れ、失敗をする。なぜ?と思います。人を傷つけてしまったとき、あるいは自分が傷ついたりするとき、どう受け止めたらよいかわからなくなるときがあります。わたしたちが苦しむのは、今この状況にある、その意味がわからないからではないかと思います。反対に、もしその意味がわかるならば、どんな試練や困難も耐えられるのかもしれません。
主イエスは、十字架におかかりになる前の晩、弟子たちに言われました。「今あなたがたにはわかるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ福音書13:7)と。今わからなくても、絶望することはなく、また無理に答えを出す必要もないということです。理解できず、受け入れられない困難に直面したとしても、それは無意味ではない。必ず理解できるときが来ると、主は教えられました。
わたしたちには、答えの出ない未解決の問題が最後まで残るのかもしれません。しかし、そのような答えの出ない問題に勝って、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と聖書は語ります。たとえ、わたしたちが今その意味を理解できないとしても、わたしたちが経験する一つひとつのことは、神のみ手の中にあります。その意味が明らかにされるときが来るという希望。そのことを信頼する信仰。それを支えているのは、愛そのものである神の支配です。その支配は不滅であり、その支配の外にあるものはありません。
パウロは「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」、「今は、一部しか知らない」と言います。わたしたちは、あたかも自分が全体を見ているように錯覚して、安易に答えを出そうとします。あるいは、諦め、考えることをしなくなります。しかし、わたしたちが今見ているものがすべてではありません。わたしたちは世界のことも、自分の人生のことも、その歴史の一部しか知りえません。だから不安になります。しかし、神は歴史の始まりから終わりまで、すべてをご存じです。神は生きて、すべてを支配しておられます。この方に信頼したいと思うのです。