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礼拝の秩序 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 15章1-11節

説教要旨6月30日 録音   主日礼拝「礼拝の秩序」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 15章1-11節 15章からパウロは「キリストの復活」。もっと言えば「死者の復活」の話を始めます。これが最後の議論になります。その最初にまず、福音の再確認から始めます。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」この「生活のよりどころ」という言葉は「立つ」という言葉です。それをもう一度見ようと言っています。あなたがたが立っている、その土台は何か。それは「わたしが告げ知らせた」言葉であるはずだ、と。 わたしたちの信仰、あるいは福音という良い知らせは、自分で考えたとか、心の内から響いて来たというのでありません。誰かから聞いてわたしの言葉になりました。語る人がいなければ知ることもなかった言葉です。それでは福音とは何か。パウロのいうことは非常にシンプルです。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。福音の最も大切なことは、キリストが死んだこと、そして復活したこと。これだけだと言うのです。これらは皆、わたしたちの外で起こったことです。言い換えれば、わたしたちが気が付こうとそうでなかろうと、知ろうと知るまいと関係が無い。事実、キリストが十字架で死に、三日目に復活したという事実。その事実の宣言が福音であって、その事実が私たちを救うのだとパウロは言うのです。それは、わたしたちが、今地球が回っていることを感じず、忘れてしまっていたとしても、事実、地球は回っているように、聖書の伝える福音は、わたしたちがどれだけ熱心に信じようが、そうでなかろうが左右されない、揺らぎようのない事実だということです。その事実が私たちの足もとを支えます。 パウロの言葉は「三日目に復活したこと」と書かれていますが、厳密

礼拝の秩序 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 14章26-40節

説教要旨6月23日 録音 主日礼拝「礼拝の秩序」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 14章26-40節 コリントの信徒への手紙14章の最後で、パウロは礼拝の秩序について語ります。当時、コリント教会では聖霊を受けた人が自由に説教し、さらにその説教に異言も混じりこんでいたために、礼拝がしばしば混乱しました。語る人たちは皆、自分が聖霊を受けたことを喜んで語ります。しかし、パウロは礼拝において語られる言葉が独りよがりのものではなく、教会を「造り上げるため」のものであるべきだと語ります。そして礼拝の秩序について、具体的に指示します。「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい…」。 当時の教会は礼拝形式がまだ定まっていませんでした。プログラムも週報もありませんでした。讃美歌を歌い、聖霊の導きを祈り求めつつ聖書を読む。すると、神が語ろうとしていることが明らかにされる。その時一人が立ち上がって語り出します。別の人も立ち上がって熱心に語り出します。このとき「先に語り出していた者は黙りなさい」と、パウロは言います。どちらの内容が良いとか、話が上手とか、年長者であるとか、そういうことは問わずに先の者は「黙りなさい」と言っているのです。 「一人ひとりが皆、預言できるようにしなさい」と言われているのも、全員が説教者となるということではなく、皆が預言できるよう礼拝を整えなさいということです。誰の口を通して神がご自身を現わされるのかわからないのだから、黙して備えなさい、と言っているのです。沈黙することで、聖霊が他の人にも働くという信頼を学びます。 コリント教会の当時の礼拝をイメージするときに、思い出す教派があります。17世紀にイングランドで始まったクエーカー(フレンド派)と呼ばれる、プロテスタントの一派です。クエーカー伝統的な礼拝はプログラムを持たない沈黙の礼拝です。礼拝では共に神の言葉を期待して待ち、示された人が立ち上がって証します。一人話し終えると他の人が話し出し、「歌おう」と促されたら一緒に歌い出します。 これに対して、わたしたちの教会の礼拝は、讃美や祈り、説教も、礼拝奉仕者があらかじめ準備します。礼拝に集う一人ひとりが、自分の歌いたい讃美や祈りたい祈りを携えてくるのは自然なことですが、皆が皆自分のしたいようにするなら混乱してしまいます。だから、わたし

人を造り上げる言葉を語ろう 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 14章20-25節

説教要旨6月16日 録音 主日礼拝「人を造り上げる言葉を語ろう」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 14章20-25節 14章では「教会における言葉」を問題にしています。「異言」による言葉の混乱です。「物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」とパウロは言います。自分だけが分かって、他の人のこと全く考えないことは子ども染みたことだという訳です。 コリント教会で起こっていた異言の問題。これは現代の教会では無関係と思われる方も多いと思います。しかし、現代の教師や牧師たちは未だ、問題視しないといけないと自戒を込めて思います。牧師の独りよがりの説教。自分だけが分かったような顔をして語るが、実は本人も分かっていない。これは当時の異言問題と同じです。「皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」とパウロは言いますが、同じです。どうして、こんな話を平気な顔をして聞いているのか。語っている人だけが変なのではない。皆の気が変だと思われてしまうのです。 プロとアマチュアのたとえがあります。アマチュアの野球選手の大切なことは自分が野球を楽しむこと。しかし、プロの選手にとって大切なことはお客さんが野球を楽しむこと。プロはそこに居合わせる相手があることを決して忘れません。人は満足して初めて対価を払うからです。もちろん、礼拝説教や対価を得ることが目的ではありません。しかし、学ぶべきことがあると思います。パウロは、主イエスの出来事を「そうせずにはいられない」(9:16)思いで伝えました。けれども、彼の本当の偉大さは、その彼自身のキリストが好きだという気持ちを世界中の人々に伝播させたところにあると思います。彼の話を聞くと、自分も主イエスが好きになってくる。聖書への信頼を持てるようになる。そこに彼のプロたる理由がある。パウロは、ただキリストを愛するということを超えて、相手に伝わり、分かる言葉をいつも求めた。だからこそ相手に伝わらない異言に対して厳しい姿勢を見せるのだと思います。 パウロは、教会を自分さえ良ければ良いという子ども染みた場所にしたくはなかったのです。宗教的な言葉を使ってはいても救いのない言葉。十字架の愛を遠ざける言葉。それらによって

実り続ける教会 小松美樹伝道師 ヨエル書3章1-5節、使徒言行録2章1-21節

説教要旨6月9日 録音 聖霊降臨日礼拝(主日礼拝)「実り続ける教会」小松美樹伝道師 ヨエル書3章1-5節、使徒言行録2章1-21節 教会学校の子どもたちと合同礼拝を捧げると共に、ペンテコステ礼拝という教会の記念の礼拝を捧げています。ペンテコステというのは「50」という意味で、十字架の死と復活から50日目の出来事でした。その時の出来事が書かれた聖書を読みました。ペンテコステは元々、収穫を祝ってお祭りをしていました。食べ物が育つこと、育てたものができたということを「実る」と言います。大事に育ててきたものが実るのは、嬉しさが溢れるような時です。だから神様に感謝する、お祭りをしていました。その収穫を祝う祭りの日が、教会の大きな喜びの日になったというのが今日の聖書の話です。教会の始まりの時について、昔から旧約聖書のヨエル書で預言されていました。大勢の人たちが集まる中、聖霊が降るということが起きたのです。激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、それが家中に響き渡りました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまりました。すると一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出しました。今私たちの周りにいる人たちが、ほかの国々の言葉で突然話し出したら、何が起きているんだろう!と驚くと思います。隣に座ってる人が突然違う国の言葉で話しだすようなことです。そこにいた人たちは驚きました。しかし、そこにいたのはいろんな国から集まってきた人々でしたので、自分の国の言葉で語られるその言葉の意味がわかりました。それは、神の偉大な業、神がどんなことをなさったのかということを世界中の人に伝えるためでした。 「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。」と言われていました。「幻を見る」と言われていたけれど、幻ではなく教会が来ました。教会は私たちが夢を見て、幻をみるところということなのだと思います。夢や幻は、過去ではなく、これから先を思って見るものです。上を向いて先を見つめて、思い描く、希望をもってみるものでしょう。教会で、夢や幻を見るというのは、教会にその希望があるのです。幼い子どもはやりたいことや夢があり、毎日が楽しみや希望でキラキラしているように思います。しかし、いつからか現実や課題に追われて、嫌な思いに

人を造り上げる祈り 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙14章6-25節

説教要旨6月2日 録音 聖餐礼拝(主日礼拝)「人を造り上げる祈り」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙14章6-25節 コリント14章のテーマは、教会の礼拝で語られるべき言葉は、異言か、預言かということです。預言も異言も共に神の霊からの贈り物として人に与えられるものと考えられていました。そして、コリント教会では特に異言の賜物が優れたものとして重んじられ、それを求めるということが起こっていました。しかし、パウロは言います「異言を語ったとしても・・・あなたがたに何の役に立つでしょう」。 なぜ、異言は役に立たないのか。相手に話している言葉の意味が伝わらないからです。進軍ラッパがはっきり音を出さなければ、兵士たちは何が指示されているか分からなくて動けないように。日本語を知らない外国人に一所懸命日本語で話しても会話にならないように。相手に伝わらなければ、言葉は役に立たない。異言はそういうもの。だからこそ言います。「教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい」。共同体を造り上げるための賜物を求めよと彼は言うわけです。 一見、現代の私たちには関係のない話に聞こえます。しかし、相手に言葉が伝わらないという事態は様々な場面で経験しているのではないか。相手への言葉が誤解されて伝わったり、反対に誤解して受け取ったり。その時、互いの間で交わされているのは異言であると思います。どうして、そうなるのか。自分の言葉を吟味しないといけない。言葉が異言のようになってしまうのは、自分を造り上げることしか頭にないときです。相手に話しているつもり。正しいことを言っているつもり。でも、実際は自分の満足、自分のためだけを思い、共に生きるための言葉になっていないとき、わたしたちは、互いにやかましく異言を語り合っています。思い上がり。独りよがり。それが言葉を通じさせなくします。パウロは、まず「愛を追い求めなさい」(14:1)と勧めます。人は愛を見失うとき、相手が見えなくなります。自分しか見えなくなる。それが異言の始まりです。 どうしたら良いか。パウロは「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で讃美し、理性でも讃美することにしましょう」と言います。この理性とはなにか。この言葉は「心」とも翻訳できる言葉です。他の手紙ではこう言われています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ