人を造り上げる言葉を語ろう 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 14章20-25節

説教要旨6月16日録音


主日礼拝「人を造り上げる言葉を語ろう」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙 14章20-25節
14章では「教会における言葉」を問題にしています。「異言」による言葉の混乱です。「物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」とパウロは言います。自分だけが分かって、他の人のこと全く考えないことは子ども染みたことだという訳です。
コリント教会で起こっていた異言の問題。これは現代の教会では無関係と思われる方も多いと思います。しかし、現代の教師や牧師たちは未だ、問題視しないといけないと自戒を込めて思います。牧師の独りよがりの説教。自分だけが分かったような顔をして語るが、実は本人も分かっていない。これは当時の異言問題と同じです。「皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」とパウロは言いますが、同じです。どうして、こんな話を平気な顔をして聞いているのか。語っている人だけが変なのではない。皆の気が変だと思われてしまうのです。
プロとアマチュアのたとえがあります。アマチュアの野球選手の大切なことは自分が野球を楽しむこと。しかし、プロの選手にとって大切なことはお客さんが野球を楽しむこと。プロはそこに居合わせる相手があることを決して忘れません。人は満足して初めて対価を払うからです。もちろん、礼拝説教や対価を得ることが目的ではありません。しかし、学ぶべきことがあると思います。パウロは、主イエスの出来事を「そうせずにはいられない」(9:16)思いで伝えました。けれども、彼の本当の偉大さは、その彼自身のキリストが好きだという気持ちを世界中の人々に伝播させたところにあると思います。彼の話を聞くと、自分も主イエスが好きになってくる。聖書への信頼を持てるようになる。そこに彼のプロたる理由がある。パウロは、ただキリストを愛するということを超えて、相手に伝わり、分かる言葉をいつも求めた。だからこそ相手に伝わらない異言に対して厳しい姿勢を見せるのだと思います。
パウロは、教会を自分さえ良ければ良いという子ども染みた場所にしたくはなかったのです。宗教的な言葉を使ってはいても救いのない言葉。十字架の愛を遠ざける言葉。それらによって本当の言葉が埋もれてしまうのが嫌だった。それで、もしも・・・という話をします。「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう』」。ここにコリント教会のビジョンが描かれています。皆が預言をし、入ってきた人が思わず、ああ、ここに神がおられると告白できる教会。パウロは、ここにもう一度立ち返ろうと言っているのです。この教会の使命は、自分だけの礼拝ではなく、人を立てあげる言葉が語られる礼拝ではなかったか、と。私たちもそうであったはずです。わたしに語られている言葉がある。それで礼拝者に連なる者になったはずです。
パウロの言う「預言」とは「人が造りあげられる」(14:17)言葉です。具体的には、愛を知る言葉、真実を示す言葉、道を指し示す言葉です。神は愛であり、真実であり、道だからです。彼は「心の内に隠していたことが明るみに出され」と言いますが、秘密を暴くというのではありません。自分でも気が付いていなかった、あるいは自分では認めたくなかった自分と出会う。赦しの言葉によってです。そして、今まで見ていた方から、向きを変えて、神、つまり愛、真実の方を向いて歩き出せる。それが人を造り上げる言葉が語られる礼拝です。
人は神と出会って初めて自分を知ることが出来ますし、向きを変えられるのだと思います。人は反省を重ねても人格的な成長は見込めないと言います。ある人は小学生の頃、いつも遅刻ばかりだったそうです。反省文も何十枚も書かされた。けれども、ちっとも変わりませんでした。自分は駄目な奴なのかという自己嫌悪だけが残りました。けれども、翌年、彼は遅刻をしなくなり、誰よりも早く教室に行く生徒になったのです。その理由は担任の先生との出会いです。その先生が好きになった。早く会いたい、話がしたい。それだけです。彼は変わるための努力も1ミリもしていませんでした。早く学校に行くのが楽しい。その思いは反省ではなく出会いで与えられたのです。
人は神に出会うとき、変わります。神に出会うとは愛を知るということです。自分が尊重されていることを知る。どんな意見も否定されない。自分がそういう存在なのだということを知る。その時、向きが変わります。私たちはパウロの言葉を通して神に出会おうとしています。聖書の言葉に心からアーメンと言えるとき、神に出会っているのだと思いますし、その言葉を今度は相手に語るとき、預言を語り合う真の礼拝は始まっているのだと思います。