投稿

11月, 2018の投稿を表示しています

その人の為にも、キリストは死んでくださった 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙8章7-13節

説教要旨 11月25日 録音 主日礼拝 「その人の為にも、キリストは死んでくださった」 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙8章7-13節  コリント教会では、偶像に供えられた肉を食することの賛否で論争が起こっていました。信仰の正しい知識によれば、そもそも偶像というものは存在しないので、そこに供えられた肉を食べても何の問題もない。しかし、「この知識がだれにでもあるわけではありません」とパウロは言います。ある人々は、異教文化の中で馴染んできた偶像崇拝の習慣を必要以上に意識して、信仰の確信が弱くなってしまいます。その肉を口にしたことで、神に対して罪を犯したように感じ、自責の念に駆られる人もありました。知識ある人たちの確信は揺らぎません。「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」。パウロもこれに同意します。しかし、こうも言います。「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」。異教社会にあるコリント教会の人たちは、日常的な付き合いで異教の神殿のレストランで食事することもありました。そこで「大丈夫」と言って肉を食べたとして、同席した弱い人がその食事で躓くなら、「あなたの知識によって、弱い人が滅びて」しまう、とパウロは警告します。  偶像への供物を口にしないという考えは、形にとらわれることであり、迷信を恐れることと同じことです。しかし、異教文化の中にあるわたしたちにとって、家や親戚の行事、地域の俗習の中に身を置くとき、つまり昔ながらの習慣に従うとき、良心の呵責が起こるということは誰にでもあるのではないかと思います。反対に、キリスト者となって得た新しい習慣もあると思います。たとえば、偶像を避けるとか、礼拝に通うとか、献げものをするとか。しかし、それを守ることで信仰の確かさを得ようとするなら、それも本当ではありません。そう考えると、誰もが強い人でありえるし、同時に弱い人になりえます。  皆が強い人になることができれば問題は解決するか。しかし、パウロは弱い人を問題にしてはいません。弱い人に「強くなれ」とは言いません。むしろ、偶像や迷信から自由になった強い人に対して、「気をつけなさい」と警告します。パウロは「食物のことがわたしの

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げます 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙8章1-6節

説教要旨 11月18日 録音 主日礼拝 「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げます」 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙8章1-6節  当時、コリントの町では異教の神殿からの払い下げの肉が売られていました。神殿に捧げられた犠牲から祭司が取り分けた残りの肉が市場に売られ、その肉が食卓に並びました。異教の儀式を経た肉をキリスト者が口にしてもよいのか、議論になりました。神殿には直営レストランがあり、日常的に利用されていました。こういう環境にあって純粋な信仰生活を貫きたいと願った人たちがいました。日本に住むわたしたちも共感します。観光で訪れた神社で、拝みに来たわけではないと自分に言い聞かせる人もあるかもしれません。仏式の葬儀でお焼香をするとき、ただ香に火をつけただけで良心を汚したように感じてしまう人もいます。  このような日常生活の迷いに対してパウロは答えます。「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。…たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです」。パウロの立場は明快です。神は唯一であって、偶像の神は存在しないので偶像に捧げられた肉というのも汚されることはない、と言っているのです。  偶像を否定するとき、「唯一の神」という存在が重要です。神もいないと言うならば、あらゆるものが神になりえるからです。学問の神。商売繁盛の神。縁結びの神。多くの人はそう呼ばれるものからパワーを得ようとします。しかし、この世界を造り、歴史を導く、すべての命の根源である神を信じてはいません。だから、あらゆるものが神になり、あらゆるものを畏れて生きています。偶像は形あるものばかりではありません。例えば、受験生であれば、志望校への合格が偶像となります。勉強するとき、合格だけが幸せで、それ以外のものがイメージできないならば、まるで鎖でペンに繋がれた奴隷のようになってしまいます。それは仕事においても同じです。パウロが「唯一の神」と言うとき、畏れるべき方はただ神のみだと言っているのです。  パウロはもう一歩進めて語ります。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる…神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」。わたしたちが知っていると思って

ひとり子 イエスさま 石丸泰信牧師 マルコによる福音書15章33-41節

説教要旨 11月11日 録音 合同礼拝(主日礼拝) 「ひとり子 イエスさま」 石丸泰信牧師 マルコによる福音書15章33-41節  今日の箇所は、イエスさまが十字架の上で死なれた場面です。なぜイエスさまは殺されてしまったのでしょうか。イエスさまが悪いことをしたからではありません。周りの人たちが悪人だったからでもないのです。イエスさまを殺した人たちは皆、良い人たちでした。いつも祈り、助け合って生きていた人たちです。なぜ良い人たちが、イエスさまを殺してしまったのでしょうか。それは、イエスさまが、皆を愛してどんなことも赦していたからです。  誰でも何か失敗したときに、赦してもらえたら嬉しいと思います。例えば、3人の友人と映画を観に行く約束をしていて、待ち合わせに遅れてしまったとして。大遅刻のせいで、その日は映画を観られなくなりました。そのとき「いいよ、何か事情があったのでしょう」と赦してもらえたら嬉しいと思います。でも、もし自分が待っていた側で、今日しか観られない映画を観損ね、もう一人の友人が「また今度ね」と言って赦すのを見たらどうでしょうか。「どうして赦してしまうの?」と腹が立ちます。この怒りはどこに行くのでしょうか。  聖書は多くのアニメや映画のような勧善懲悪の物語ではありません。悪人を問題にするのではなく、善人を問題にします。善人たちの心の中にあるものをよく見ています。聖書は、イエスさまの十字架の出来事を語るときに、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と言います。真昼の闇という描写は、自然現象ではなく、そのとき人間の内側にあるものが現れ出たことを暗示しています。わたしたちの心の中にある闇が、この世界を真っ暗にするほどだと聖書は語るのです。こう言った人がいます。「悪人を赦す者は、善人を傷つける」(セネカ)。イエスさまは人の心の隠れたものを露わにされました。「なぜあの人を赦してしまうの?」という善人たちの心にある闇によって、イエスさまは十字架にかけられました。  聖書に次のようなお話があります(ヨハネ福音書8:1-)。あるとき、一人の女性が皆に囲まれていました。既婚者を好きになり、結婚を壊してしまった女性でした。結婚を壊してはいけないというのは、神さまの掟です。皆はこの掟を破ったその女性を裁判にかけて死刑にしようとしていました。そこにイエスさまが

神の涙 石丸泰信牧師 ヨハネによる福音書11章17-37節

説教要旨 11月4日 録音 永眠者記念礼拝(主日礼拝) 「神の涙」 石丸泰信牧師 ヨハネによる福音書11章17-37節  先に召された信仰の先達たちを憶え「永眠者記念礼拝」を捧げています。この日は命を憶え、また死を憶える日です。死はいつも隣にあります。齢が若いほど死は遠いものに思えるかもしれません。命は、誕生から数えれば先輩、後輩があります。しかし、死から数えるといつも皆が同い年です。もし命が造花のようなものであったら大切に生きようとは思えないでしょう。しかし命は、造花とは違って、手入れが必要で終わりがあります。だからこそ、一緒に生きることが愛おしい、大切だと感じさせられるのだと思います。  主イエスは、命と死をどうご覧になるでしょうか。親しいラザロの死を前にして、主は「心に憤りを覚え、興奮」されたと聖書は伝えます。この「興奮」という言葉を、「張り裂ける思い」と翻訳する聖書もあります。姉妹のマリアは泣き、周囲のユダヤ人たちも泣いています。ラザロの死が残念、悔しいという思い、残された姉妹たちが痛ましいという思いもあったと思います。生きている間は「命は儚いから美しい」と言えるかもしれません。しかし、死を前にして、わたしたちは泣くことしかできません。諦めるしかない。けれども、主は激怒されます。ひとりの人が失われる、その死の出来事と、主は闘われるのです。  主がベタニアに来られたとき、ラザロは墓に葬られて4日が過ぎていました。姉妹のマルタは言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。もう手遅れになってしまった、残念で恨めしいような思いも表われています。主は言われます。「あなたの兄弟は復活する」。つまり、万事休す、ではないと。マルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。終わりの時に、死んだ者も皆復活して神の審きを受けるというのは、ユダヤ人の一般的な信仰でした。死後審きを受け、天国か地獄に行くというのは、広く人々の間で信じられていることでもあります。このような復活の思想は、喜ばしいものであるよりは不安を伴うものです。これに対して主は仰いました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と。主は、復活の先にある命をお示しになります。主はこの後、審きの十字架に向かわれますが、審きの