その人の為にも、キリストは死んでくださった 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙8章7-13節

説教要旨 11月25日録音


主日礼拝 「その人の為にも、キリストは死んでくださった」 石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙8章7-13節
 コリント教会では、偶像に供えられた肉を食することの賛否で論争が起こっていました。信仰の正しい知識によれば、そもそも偶像というものは存在しないので、そこに供えられた肉を食べても何の問題もない。しかし、「この知識がだれにでもあるわけではありません」とパウロは言います。ある人々は、異教文化の中で馴染んできた偶像崇拝の習慣を必要以上に意識して、信仰の確信が弱くなってしまいます。その肉を口にしたことで、神に対して罪を犯したように感じ、自責の念に駆られる人もありました。知識ある人たちの確信は揺らぎません。「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」。パウロもこれに同意します。しかし、こうも言います。「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」。異教社会にあるコリント教会の人たちは、日常的な付き合いで異教の神殿のレストランで食事することもありました。そこで「大丈夫」と言って肉を食べたとして、同席した弱い人がその食事で躓くなら、「あなたの知識によって、弱い人が滅びて」しまう、とパウロは警告します。
 偶像への供物を口にしないという考えは、形にとらわれることであり、迷信を恐れることと同じことです。しかし、異教文化の中にあるわたしたちにとって、家や親戚の行事、地域の俗習の中に身を置くとき、つまり昔ながらの習慣に従うとき、良心の呵責が起こるということは誰にでもあるのではないかと思います。反対に、キリスト者となって得た新しい習慣もあると思います。たとえば、偶像を避けるとか、礼拝に通うとか、献げものをするとか。しかし、それを守ることで信仰の確かさを得ようとするなら、それも本当ではありません。そう考えると、誰もが強い人でありえるし、同時に弱い人になりえます。
 皆が強い人になることができれば問題は解決するか。しかし、パウロは弱い人を問題にしてはいません。弱い人に「強くなれ」とは言いません。むしろ、偶像や迷信から自由になった強い人に対して、「気をつけなさい」と警告します。パウロは「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と言います。弱い人のために、持っている権利を放棄すると言うのです。肉を食べても誰からも非難されないし、非難されるべきではない。強い人たちの主張する「自由」は、他者から保証されている権利です。しかし、パウロはその「自由」をいかに使うかを問題にします。パウロは自由を自分のためではなく、相手のために使いたいと言うのです。なぜでしょうか。主イエスがそのように生きられたからです。神の身分を捨てて人となられた。主イエスほど自由な方はありません。パウロは、唯一の神を信じて生きるということは知識だけでは不十分だと言います。神はどのような方か。何をなさったのか。どのような顔の方か。あなたの主人を思い出してほしいと、パウロは言うのです。
 ある人が次のような話をしていました。タクシーは、客を乗せると「空車」から「実車」に変わります。「空しい車」が「実りある車」になります。ハンドルを握るのは運転手ですが、客が行先を決めます。このことは信仰を持つことと同じだ、と。良い客を乗せたら、良い目的地へ行くことができます。悪い客を乗せてしまったら、悪いところに行ってしまうかもしれません。早くその客を降ろし、本当に良い客を迎えなければなりません。良い客、良い主人こそ幸いな目的地を知っています。しかし、運転するのは自分です。わたしたちは、時に、主人を見失って「空車」のまま町中を走り続けるようなことがあるかもしれません。自分がどこにいるのか、自分がだれなのか分からなくなってうろうろしてしまう。けれども、見えなくなることがあったとしても、主人は後ろに乗っているのです。わたしたちは、正しい知識よりも、誰を礼拝しているのか、どのような主人を乗せて運転しているのかを思い出したいのです。