投稿

9月, 2019の投稿を表示しています

イスラエルの最初の王 小松 美樹 伝道師 サムエル記上10章17-24節

説教要旨 9月29日 録音 主日礼拝「イスラエルの最初の王」小松 美樹 伝道師 サムエル記上10章17-24節 イスラエルの最初の王の話です。主なる神がイスラエルの民を救い、導いておられたので神への信仰が王を必要としていませんでした。しかし、今イスラエルの民は王が欲しいと言うのです。 サウルは突如として王に任命されました。人々の前で公に「くじ」で王になることが示されました。くじ引きは新約聖書でも弟子の選出の際に行われていて、多数決や人の意見で選ぶのではなく、神の御意志を問う方法として用いられます。その時サウルは荷物の間に隠れていて、人々は走って行き、サウルを連れてきて、民の真ん中に立たせて「王様万歳。」と喜び叫びました。 それまでの部族社会の上に王が登場するという大きな変革です。戦争のために他の国々のように王を立てます。ペリシテ人との戦いが続く日々に、常設の軍隊を率いる王を立てて、安全を得るための策でした。しかし真の意味では、直接語りかけ導いてくれる目に見える存在が欲しかったのだと思います。それは「王様万歳」という言葉にも現れているように思います。万歳と訳されている言葉は「生きる」という意味で、他にも「命がながらえますように」と訳されている箇所もあります。直訳すると「王が生きるように」。イスラエルの民にとって、救い、導き出した主なる神は、自分たちの生活から遠く離れ、危機にも頼れず、無力な「死んだ神」であったのでしょう。 王に選ばれたのはベニヤミン族の若者のサウルでした。しかし、サウルの王国は長くは続きません。ペリシテ人との戦いの時、預言者サムエルはサウルに「私の到着を7日間待って、捧げ物をして、そして出陣せよ」と命じていました(13:8-)。しかし7日経ってもサムエルは現れませんでした。すぐに手を打たないとペリシテ軍に攻め入られてしまうという兵士たちの不安にサウルは答え、自ら捧げ物をし、戦いを開始しようとします。これが神への裏切りで、背信となりました。主の言葉に耳を傾けるよりも、人々の言葉に聞き従ったのです。 旧約には王の規定が書かれています(申命記17:14-)。またイザヤ書32章1−2節には、民に仕えられる王ではなく、民に仕える王が「正しい王」と呼ばれています。今日の交読詩編の第2編は、王の即位式と言われます。現実世界の混乱に直面すると、王は自身に従えと、服従を

穏やかではない信仰生活 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 16章5-12節

説教要旨 9月22日 録音 「穏やかではない信仰生活」 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 16章5-12節 パウロは、この手紙を締めくくるに当たって献金ことを書きました。そして、ここで旅行のこと、他の教師のことを言います。パウロは今、エフェソにいます。そこからマケドニア経由でギリシアの諸教会を尋ねる。その際、コリント教会にぜひ滞在したい。しかし、五旬祭(ペンテコステ)まではエフェソにいるので待っていて欲しいと言います。 そして、若き伝道者テモテの話を始めます。もう、そちらに送り出したので「そちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようにお世話ください」と。どうしてテモテの心配をしているのか。おそらく、テモテ自身、問題を抱えていたのだろうと言われています。弱いところがあった。人々に軽んじられてしまうところがあったわけです。彼自身、コリントに行くことを恐れていたかも知れません。しかし、それなのにどうしてテモテを送るのか。それは、そういう人こそ、神は用いられるということを知っていたからです。パウロ自身、優れた人でしたが弱点も持っていました。その自分が用いられているのと同様に、テモテもということです。パウロは「誰も彼をないがしろにしてはならない」と言っていますが、それは、この人でなければ現せない神の思いがある。それを見逃さないようにして欲しいと言っているのだと思います。 そして、パウロはすぐにコリント教会へ行けない理由を述べています。「わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」。ここですべきことがあるということです。伝道のための大きな機会が来ているということです。けれども、それと矛盾するようなことも言います。「反対者もたくさんいる」。伝道者の働き、教会の営みは福音を告げることです。それが響いているのであれば、反対する敵はいないように思えます。けれども、彼は敵がいることを当たり前のような口調で言うわけです。どうしてか。それは同時に、その福音を受け入れるというのは、自分を捨てることだからです。今までの自分を捨てて新しいものを受け入れる。そこには居心地の悪さが生まれるからです。ある人は、こう言います。「敵のない穏やかな信仰生活はあるのでしょうか。もちろん、求めて敵を作るわけではありません。しかし、敵のない信仰生活には、

注ぎ出す祈り 石丸泰信 牧師 サムエル記上1章9-20節

説教要旨 9月15日 録音 主日礼拝「注ぎ出す祈り」石丸泰信 牧師 サムエル記上1章9-20節 「敬老の日」に重ねて歳を重ねる幸いを覚える礼拝をささげています。キリスト者にとって、歳を重ねる幸いの一つは、「祈りを重ねる幸い」です。今日の聖書は、ハンナという一人の女性の祈りの姿を描いています。ハンナの夫エルカナには、ペニナというもうひとりの妻がいました。ペニナには子がありましたが、ハンナには子はなく、このことがハンナを苦しめました。「毎年…彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった」とあります。エルカナは誰よりもハンナを愛し、彼女を慰めようとするのですが、ハンナの痛みが癒えることはありませんでした。 たとえ夫婦であっても、互いに手の届かない領域があるのだと思います。誰にでも、人に理解されない苦しみ、孤独があります。ハンナも、誰に話すこともできない孤独の中にありました。あるいは、誰かに相談したこともあったのかもしれませんが、そのことで傷つくこともあったかもしれません。このときハンナはどうしたか。「悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」とあります。その様は泥酔した者のようで、誤解して注意した祭司のエリに対して、ハンナは否定しつつ言いました。「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」。「わたしの心を注ぎだしておりました」という翻訳もあります。祈りとは「心を注ぐこと」なのです。 聖書の言葉で「心」は、「魂」であり「息」です。人は生きている限り呼吸します。「息」は人間の命を指します。息を注ぐハンナの祈りは、命を注ぎ出すようなものでした。また、「注ぎ出す」という言葉は、「空っぽにする」という意味の言葉です。ハンナは、空っぽになるまで主の前に自らの命を注ぎ出していたというのです。 わたしたちは、しかし、自分の悩みを人前ですべて注ぎ出すことはできません。神の前でも、なかなかできないのではないかと思います。神の前でさえも、どこかよそ行きの、上滑りするような言葉でしか祈れないのではないかと思うのです。 癌患者の終末期医療として、在宅ホスピスに取り組んだ河野博臣という方が次のようなことを書いていました。河野さんのところに末期癌の女性が入院しました。女性は癌のためにお腹が膨らみ、苦しんで鬱状態に陥り、医者にも看護師にも口を利かなくなりました。この女性

新しいリズム 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙16章1-4節

説教要旨 9月8日 録音 主日礼拝「新しいリズム」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙16章1-4節 パウロは、この手紙の最後の章を、献金の勧めで始めています。「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」。「週の初めの日」、つまり日曜日ごとの献金をパウロが勧めているのは、この日が主イエスの復活の日であるからです。わたしたちにとって日曜日ごとに礼拝し、献金をささげることは当然のことです。しかし、当時のユダヤ人は、週の終わりの安息日に礼拝をささげました。神を知らない異邦人は、日曜日をただの週の初めの日として過ごしました。しかし、キリスト教会は、この主の復活の日曜に礼拝をささげ、一週間を歩み出す新しいリズムの中に生き始めたのです。信仰は、よく心の問題として扱われますが、こういうリズムの変化を考えるとき、具体的な生活そのものに関わることだと思わされます。 パウロは、「各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに…」と言います。「収入に応じて」とは、直訳すれば、神に「豊かにされた分だけ」という言葉です。自分の持ちものは、自身の力で得たものではなく、神から与えられたもので、神の祝福のしるしだ、と考えているのです。そうは言っても、日常生活の中では「自分のものは自分のもの」と考えることも多く、なかなか手放すことは難しいものだと思います。 ある人はこう言いました。「あなたのもっている財産のうちで確かなものと言えるものは、あなたが人に施した分だけである」。確かにそうです。家族や友人、出会い、大切なものはみな「自分のもの」とは言えないものばかりです。自ら獲得したものではなく、与えられたものです。殊に死を考えるとき、最後に「自分のもの」といえるものはいよいよなくなってしまいます。もし、わたしたちが施しをすれば、きっとそれを受けた人は言うでしょう。「あなたに助けられた」と。そのように誰かに受け取られた時にだけ、自分は財産を与えた、と本当に言えるのだと思います。 人は、与えることを忘れると、自分の利益ばかりを考えてしまいます。イスカリオテのユダがそうでした。マリヤが高価な香油を、主イエスの足に注いだとき彼は言いました。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」(マタイ26:6-、ヨハネ12:1-)と。

希望の下の労苦 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙15章50-58節

説教要旨9月1日 録音 聖餐礼拝(主日礼拝)「希望の下の労苦」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙15章50-58節 「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです」と言います。ここは15章の結論、もっと言えば、手紙全体の結論と言っても良いと思います。「わたしはあなたがたに神秘を告げます」とも言います。その秘密の第一は「血と肉は神の国を受け継ぐことはできず」ということです。「血と肉」というのは人間が、血と肉を頼りにして知ろうとしても、この秘密は分からないということです。「神の国」というのはパウロにとって「主に結ばれる」ことと同じです。つまり、主に結ばれるということは、血と肉によってではできない。信仰によるのだということです。キリストの復活の出来事への信頼。それによってでしか、この秘密は受け取ることが出来ないということです。 ここには「最後のラッパ」や「朽ちないもの」、「死のとげ」など印象深い言葉が出てきますが、どれも説得的ではないような気もします。ある人はこう言います。「これらの秘密は、福音の理解にとって本質的なことではない。最後の日の出来事は、安んじて、神に委ねれば良いのである。何が起るかということを知ったからといって、別に得するわけではない」。つまり、大切なのは、よく理解することよりも、この神を信頼して生きるということ。だから、パウロ自身もよくわかるように、詳しく書こうとはしなかったのだと思います。 しかし、反対に、よく理解して欲しいということも言っています。「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。私たちの地上の生命は、終わるときが来ます。どんなに苦労した働きも、死んでしまえば、その成果を見ることはできません。励む人ほど、それを強く感じると思います。旧約も同じように言います。「太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ」(コヘレト2:18-)。一言で言えば、すべては死の前に無駄な営みということです。しかし、パウロは、それに反して「あなた方の労苦が決して無駄にはなら