希望の下の労苦 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙15章50-58節

説教要旨9月1日録音


聖餐礼拝(主日礼拝)「希望の下の労苦」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙15章50-58節
「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです」と言います。ここは15章の結論、もっと言えば、手紙全体の結論と言っても良いと思います。「わたしはあなたがたに神秘を告げます」とも言います。その秘密の第一は「血と肉は神の国を受け継ぐことはできず」ということです。「血と肉」というのは人間が、血と肉を頼りにして知ろうとしても、この秘密は分からないということです。「神の国」というのはパウロにとって「主に結ばれる」ことと同じです。つまり、主に結ばれるということは、血と肉によってではできない。信仰によるのだということです。キリストの復活の出来事への信頼。それによってでしか、この秘密は受け取ることが出来ないということです。
ここには「最後のラッパ」や「朽ちないもの」、「死のとげ」など印象深い言葉が出てきますが、どれも説得的ではないような気もします。ある人はこう言います。「これらの秘密は、福音の理解にとって本質的なことではない。最後の日の出来事は、安んじて、神に委ねれば良いのである。何が起るかということを知ったからといって、別に得するわけではない」。つまり、大切なのは、よく理解することよりも、この神を信頼して生きるということ。だから、パウロ自身もよくわかるように、詳しく書こうとはしなかったのだと思います。
しかし、反対に、よく理解して欲しいということも言っています。「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。私たちの地上の生命は、終わるときが来ます。どんなに苦労した働きも、死んでしまえば、その成果を見ることはできません。励む人ほど、それを強く感じると思います。旧約も同じように言います。「太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ」(コヘレト2:18-)。一言で言えば、すべては死の前に無駄な営みということです。しかし、パウロは、それに反して「あなた方の労苦が決して無駄にはならない」と言うのです。主の復活の故です。それが、労苦が無駄にならない希望なのです。
十字架の死。それがキリスト者の最初の絶望でした。信じて着いてきた主が死んでしまった。まだ息があるならば希望はあります。しかし、もう人の抱き得る希望は無くなったのです。しかし、そこに神は出来事を起こされました。神の起こされる出来事は人の希望を超えた希望の出来事です。「動かされないようにしっかり立ち」と言います。立つと言われていますが座ることを意味する言葉です。しっかりと腰を据えて座りなさい。そして、自分が今、どこに座っているか。生活の座を持っているかと問われている言葉です。あなたは不確かな将来を見ているのか、確かな将来に信頼しているのか。
内村鑑三の講演に「デンマルク国の話」というものがあります。1864年、デンマークは敗戦し農業の出来そうな土地は殆ど取り上げられてしまいます。その国家存亡の危機の中、どのようにして克服し、豊かな国となったのか。内村は「戦勝国の戦後の経営はどんなつまらない政治家にもできます。・・・難いのは戦敗国の戦後の経営であります、国運衰退のときにおける事業の発展であります」。「戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大なる民であります、宗教といい信仰といい、国運隆盛のときにはなんの必要もないものであります。しかしながら国に幽暗の臨みしときに精神の光が必要になるのであります」と言います。上手く行っているときは問題はありません。困難や悩みの中で、その人の真価が問われる。それは信仰も同じだと言うのです。そして、内村は、ダルカスという一人の無名の人物の働きに注目します。当時の挨拶は「今や、デンマルクにとり悪しき日なり」だったそうです。その中、彼だけは否と言い、黙々と働きます。人々が諦める中、荒れ野に木を植え始めるのです。誰もそこから復興が起るとは思いませんでした。愚かだと思いました。しかし、彼は希望を抱くことを辞めず、もみの木を植え続け、荒れ野は緑になるのです。もちろん、彼一代の仕事ではありません。息子の時代になってようやく日の目を見、牧畜が始まり、経済の立て直しが始まっていったのです。内村は彼の姿を見て言います。「国の実力は、軍隊ではありません。軍艦でもありません。はたまた金や銀でもありません。信仰です。」主の復活は、私たちの望みが絶たれた後に立ち上がってきた希望です。たとえ、今、自分には無駄に見えるものであっても無駄では無い。そのことに信頼したいと思います。