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たといそうでなくても 石丸泰信牧師 ダニエル書3章16-30節

説教要旨 2月23日 録音 「たといそうでなくても」 石丸泰信牧師 ダニエル書3章16-30節  ダニエルの置かれた状況は、わたしたち日本のキリスト者に似ていると言われます。ダニエル書はバビロニア帝国が舞台の物語です。エルサレム神殿は崩れ、イスラエルの人々の多くは捕囚としてバビロンに連れて行かれます。ダニエルも、その一人です。そこで待っていたのは自分たちの信仰を全く理解しない異教の社会でした。彼らは全く違う価値観の世界に投げ込まれてしまったのです。その中でどう生きるか。ある人たちはイスラエルの信仰と習慣を捨て、バビロニア人として生きようと努めました。あるいは、頑なにイスラエルの伝統を固持した人たちもいます。バビロニアの活動には一切参加しません。価値観の違う社会と接しないことが信仰を守る唯一の手段だと見なしたのです。他方。ダニエルは、そのどれとも違う生き方をしました。 ダニエルと3人の友人、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、将来バビロニアに仕える為、宮廷に召しだされ、そこで生活していました。宮廷の食事は肉と酒でした(1:8-)。しかし、彼らは、それを口にしまいと決めるのです。バビロンの食事は汚れだということではありません。最初は食べるだけ、しかし、いつの間にか異教の習慣に巻き込まれてしまっていたという事態を避けたのだと思います。彼らは自分たちに与えられている自由を用いて一線を引いたわけです。他方、彼らはしっかり王に仕えました。王の夢を解き、貢献し、彼らは国の行政官に任じられます(2:1-)。彼らの姿を通して、その地で聖書は地の塩、世の光として生きよと伝えているのだと思います。その地域に馴染みすぎて塩気を失うのではなく、その地域が持ち合わせていないものを差し出し、本当に必要な言葉を語り、良き光で照らせと。 今日は、ドラの平野に金の像が建てられたときの奉献式の場面です。楽の音が響くとき、この像を拝むという式典でした。全ての高官たちが集められました。その中にシャドラク、メシャク、アベド・ネゴもいます。国際国家となったバビロニア帝国の国家統一方法は宗教による統一でした。同じ像を拝む。違反者は燃える炉の中に投げ込まれるという罰則が伴うものでした。そして、3人はそれを拒むのです。王は言います。「もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出

蜜のように甘い言葉 小松美樹伝道師 エゼキエル書3章1-11節

説教要旨 2月16日 録音 「蜜のように甘い言葉」 小松美樹伝道師 エゼキエル書3章1-11節  エゼキエル書はイスラエルの民の危機に、悔い改めと将来への希望を告げる書です。その特徴は幻の多さです。1章は他の預言者には見られないほどの圧倒的な神の顕現があります。代表的な37章「枯れた骨の谷」の幻や、40章からの「新しい神殿の幻」が思い浮かぶ方があるかもしれません。  預言者の「エゼキエル」という人物がいます。その名は「神は強める」という意味です。彼はエルサレム神殿の祭司の家系でした(1:3)。第一回捕囚期に(前597年)ヨヤキン王とバビロニアに連れて行かれ、捕囚の地で5年暮らしたその時に、預言者としての召命を受けました。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。…それは蜜のように甘かった。』(3:1−3)このように始まりました。食べよと言われているのは、巻物です。つまり聖書で、しかもそれは『哀歌と、うめきと、嘆きの言葉』(2:10)でした。それを食べなさいと、主の手が差し伸べて来たのです。  「御言葉を食べる」とは、よく噛み締めて、味わって、それを糧に生きよう。そう言うことだと思います。けれども、その決意も、お腹に入ってしまった途端に、目の前から消えると、忘れてしまうことは多くの人が思い当たることだと思います。  み言葉を食べるという生活を実践することはなかなか難しいと思います。 聖書を毎日読んだり、聖書を書き写しているという方もおられます。 何をやっても続かない私にとって、そうゆう習慣を続けておられる方々には、頭が下がります。なぜなら、何もせずに、御言葉が生活の中に伴うことは難しいと思うからです。祈ることも、私たちに聖書の言葉を思い出させてくれる。力づけてくれる。主の忍耐を思い起こして、何事にも思慮深くさせてくれることと思います。  エゼキエルは度々異常な行動を示したと言われ、(巻物を食べたり(3:1−3)、自分の体を縄で縛り、長期間横になった(4:8)他。)それは精神的な病にあったのだという見解があります。預言者が神の託宣を受ける時、多かれ少なかれ、幻視・幻聴など異常な状態に陥りました。巻物を食べ、しかもそれを甘いのだと言うのです。異常に見えたことでしょう。けれども、やはり主の召命を受けた者たちは変わっているのだと思います。それはいつの時代も同じで、今の私たちも

預言者エレミヤ 石丸泰信牧師 エレミヤ書1章4-10節

説教要旨 2月9日 録音 「預言者エレミヤ」 石丸泰信牧師 エレミヤ書1章4-10節  エレミヤの召命です。召命はCallingとも言われます。電話のコールです。誰かが・・・神が呼んでいる。元々は司祭、修道士の務めに対して使われていました。しかし、宗教改革を経て一般の仕事に就くときもCallingという言葉は使われるようになります。そうすると仕事の意味合いが変わってきます。辞典を引けば「暮らしを立てるもの」が仕事の一般的な意味です。しかし、働くとは神の召しだと知っている人は、仕事とは、与えられた使命を果たすことだ、その為に呼ばれたということになります。しかし、それは職業に限定されないと思います。アブラハムが神のコーリングを自覚したのは75歳の時です。「行く先も知らぬまま、命じるところへ行け」。行く先も知らぬままというのは、その後の将来を神に任せて、ということです。しかし、出て行くこと自体が彼の使命ではありません。「全ての人の祝福の源となること」これが彼に与えられた使命。しかし、その実りは主イエスの十字架の死と復活を通して結びます。つまり、アブラハムは自分の使命の実りを見ないまま生涯を終えたのです。召しを受けたからといって、自分の人生に確信をもって生きられるというものではありません。何度も、これでいいのだろうか、と悩み、祈りながら生きる姿がアブラハムにもエレミヤにもあります。  皆さんは選ばれたという感覚はありますでしょうか。それはなくて良いのだと思います。信仰生活は感じる生活ではなく、信じる生活です。選ばれていると自分が感じようと感じまいと神の召しの中におかれて今がある。それを信じて良いということです。何か理由があって、今、ここに呼び出されているのなら、ここで私のすべきこと(使命)とは何かという視点で、すべてのものを見るということです。そうであれば、あの頼まれ事は神の召し。この頼まれ事は違うというものではなくて、もっと全体的なことなのだと思います。主なる神は「わたしはあなたを母の胎に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し・・・」と言います。エレミヤは知らなかっただけで、彼の生涯は、まず神の選びから始まっていました。  神の選びではなく、一つひとつ自分で選んだ結果が今なのだという方もあるかもしれません。けれども、それではどうしてキリ

人間の恐れ 石丸泰信牧師 イザヤ書6章1-8節

説教要旨 2月2日 録音 「人間の恐れ」 石丸泰信牧師 イザヤ書6章1-8節 預言者イザヤの召命の場面。これはイザヤの証です。その出来事は礼拝の場で起こりました。聖書は「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」という賛美が響いたと言います。この時、イザヤは神殿で、今で言えば、教会で独り座っていたのかも知れません。すると突然、神の御座、セラフィム(天使)たちが現れ、神の礼拝が始まった。これはわたし達が捧げている目に見えない神への礼拝の本当の姿です。イザヤは、その幻を見たのです。しかし、そのとき、イザヤは喜べませんでした。「災いだ。わたしは滅ぼされる」。彼は恐れました。どうしてか。  これは「ウジヤ王が死んだ年のことである」と言われています。しかし、1章1節を見ると、ウジヤ王が在位しているときからイザヤは預言者として活躍していたようです。ウジヤ王は善王として知られていますが、その晩年は、思い上がり堕落し、主に背いて生きていたことが記されています(歴代26章)。1-5章を読むと当時の様子がわかります。偶像礼拝、横暴がありました。人々は形だけの礼拝をしていました。この頃、イザヤは預言者としてユダの国に対して嘆き、怒り、裁きの言葉を告げていたのです。  どうして今になって(6章で)イザヤへの神の召しがあるのでしょう。それは、まさにこの時、神はイザヤの前に現れなければならなかったからです。時に、人は信仰生活に熱心になると同時に、熱心に人を裁くようになることがあります。その時の心には「自分は正しい」という自己肯定があります。あの人は間違っている。わたしは違うという意識が人を裁く。神はご自身をはっきり現されることによって、イザヤに、そのことを気がつかせるのです。わたし達は誰でも、少なくとも自分は正しい生き方をしていると思って生きています。だからこそ、主張がぶつかり、言い争いが起こります。しかし、人ではなく、神の前に立つとき、自分の正しさを誇ることはできなくなるのです。 神に対する「恐れ」はどこから来るのか。それは創世記3章にまで遡ります。アダムとエバ。彼らが神に背いたとき、初めて「恐れ」という言葉が出てきます。主なる神が近づき、アダムを呼ばれると、彼は「あなたの足音が園の中から聞こえたので恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と応えました。裸だから。つまり、ありのままの姿で神に