人間の恐れ 石丸泰信牧師 イザヤ書6章1-8節

説教要旨 2月2日 録音


「人間の恐れ」 石丸泰信牧師

イザヤ書6章1-8節

預言者イザヤの召命の場面。これはイザヤの証です。その出来事は礼拝の場で起こりました。聖書は「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」という賛美が響いたと言います。この時、イザヤは神殿で、今で言えば、教会で独り座っていたのかも知れません。すると突然、神の御座、セラフィム(天使)たちが現れ、神の礼拝が始まった。これはわたし達が捧げている目に見えない神への礼拝の本当の姿です。イザヤは、その幻を見たのです。しかし、そのとき、イザヤは喜べませんでした。「災いだ。わたしは滅ぼされる」。彼は恐れました。どうしてか。

 これは「ウジヤ王が死んだ年のことである」と言われています。しかし、1章1節を見ると、ウジヤ王が在位しているときからイザヤは預言者として活躍していたようです。ウジヤ王は善王として知られていますが、その晩年は、思い上がり堕落し、主に背いて生きていたことが記されています(歴代26章)。1-5章を読むと当時の様子がわかります。偶像礼拝、横暴がありました。人々は形だけの礼拝をしていました。この頃、イザヤは預言者としてユダの国に対して嘆き、怒り、裁きの言葉を告げていたのです。

 どうして今になって(6章で)イザヤへの神の召しがあるのでしょう。それは、まさにこの時、神はイザヤの前に現れなければならなかったからです。時に、人は信仰生活に熱心になると同時に、熱心に人を裁くようになることがあります。その時の心には「自分は正しい」という自己肯定があります。あの人は間違っている。わたしは違うという意識が人を裁く。神はご自身をはっきり現されることによって、イザヤに、そのことを気がつかせるのです。わたし達は誰でも、少なくとも自分は正しい生き方をしていると思って生きています。だからこそ、主張がぶつかり、言い争いが起こります。しかし、人ではなく、神の前に立つとき、自分の正しさを誇ることはできなくなるのです。

神に対する「恐れ」はどこから来るのか。それは創世記3章にまで遡ります。アダムとエバ。彼らが神に背いたとき、初めて「恐れ」という言葉が出てきます。主なる神が近づき、アダムを呼ばれると、彼は「あなたの足音が園の中から聞こえたので恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と応えました。裸だから。つまり、ありのままの姿で神に向かい、神を喜ぶことができなかったのです。なぜか。神の前に正しくないこと、神に背いていることを知っているからです。それはイザヤも同じでした。

ある人は「キリスト者は、自らが罪人であるということを徹底的に知らなければならない」と言います。「そうでなければ、いつの間にか自分が何者かになってしまうから」です。ある牧師が神学生になった時のこと。教会に慣れて来たとき、牧師に、あの人は問題だ、この人も問題だと言ったそうです。すると牧師は「君はまだ罪人ということが分かっていない。君は自分の罪が分からないから、人の罪ばかり見えるんだ。君はもっと罪人になりなさい」と言われた。それが忘れられないと言います。イザヤは「わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」と神に告げました。唇は自分の全存在を表す表現です。つまり、自分は罪人だと彼は神に言えたのです。なぜ、神は今、現れたのか。イザヤに、自分もまた神の前に罪を犯す一人。イスラエル共同体の一人なのだということに気がついてほしかったからです。人を裁く言葉を言うとき、わたし達は、あたかも、その会社や家族、共同体の外にいるような気になります。しかし、わたし達はいつもその中にいるのです。

「すると」セラフィムの一人が炭火を火鋏で持ち、イザヤの口に触れて言いました。「これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。この炭火は神殿の捧げ物のための火。これは神の赦しの宣告です。神の前に自分の罪を徹底的に知らされ叫んだ者が、今、神の前で罪のない者とされたのです。主なる神は言葉を続けます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。イザヤがこれまで責め立てていたイスラエルの人々の所へ、赦しの宣告のために誰を、ということです。そこにはイザヤしかいません。イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応えます。これは自信の表れではなく、むしろ、赦され、受け入れられた嬉しさからの反射的な応答だと思います。ある人は、本当に自分を赦してくれたと実感したのは、失敗した後、その仕事をあなたにもう一度、頼みたいと言われたときだ、と言っていました。普通、赦すと口では言っても、その仕事からは外されます。しかし、神はもう一度、信託してくださったのです。

イザヤが言った「ここ」とはどこか。彼が立っている場所は、神が自分を受け止めてくださっていることを知った恵みの中です。「はい、わたしはここにおります」とはアダムが言えなかった言葉です。イザヤは赦された罪人として「ここ」に立つことができました。

イザヤの見た主の幻はどのような姿であったのか。その御身体はたくさんの傷があったと思います。「アメージングジャーニー」という映画の中で、父なる神が「愛はしるしを残す」と言い、手首を見せるシーンがあります。神の手首には主イエスと同じように十字架の釘の跡があるのです。あなたが傷つくとき、神にもその傷跡が残る。なぜか。愛しているからです。自分の罪に気がつかない者は、神の御身体の傷にも気がつかない。自分の罪を知る者は、主のたくさんの傷跡にも気がつくのだと思います。