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もっと求めなさい 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙12章27-31a節

説教趣旨4月28日  録音 主日礼拝「もっと求めなさい」 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙12章27-31a節 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました」。体に不要な部分はありません。体の部位を指して「〇〇さん」と呼ぶのはおかしなことで、多くの部分がつながって初めてひとりの人となります。 作家の高史明(コ・サミョン)さんは、一人息子を12歳の時に自死で失くしています。この経験から、執筆や講演活動を通していのちが自分のものではないというメッセージを送り続けています。これに対して子どもたちから多くの質問が寄せられると言います。ある日彼のもとに「死にたい」という少女が来ました。彼は聞きました。「死にたいって、君のどこが言っているんだい。ここかい?」と頭に手を置くと、少女は頷きます。彼は続けます。「君が死ねば、手も足もぜんぶ死ぬんだよ。手に相談してみたかい? 手だけじゃない。足にも了解してもらわなくちゃね」。彼は続けます。「人は大きくなると、頭が中心になって足の裏のことなんて忘れてしまう。しかし、その頭の重みも入れて君の全身を支えているのは足の裏だろう。賛成かどうか足の裏の意見を聞いてほしいな」。数か月後、その少女から手紙が届きました。「足の裏の声が聞こえてくるまで歩き続けます」。人は一人で生きるのでも、頭だけで生きるのでもない。全部でわたし。少女はそのことに気づいたのです。 教会も同じです。信仰者になることはキリストの体の部分になることだと聖書は言います。これは目に見えないキリストの姿が、教会を通して現れるということでもあります。わたしたち一人ひとりを通して、キリストが見えると聖書は言うのです。主イエス・キリストは嫌われている者の家に泊まり、罪人のために命を捨てました。あの人は嫌いだから交わりを持つのは遠慮したいと言うのであれば、主の思いはいつまでもわかりません。パウロは、共にいてこそキリストの体だと言います。環境や感情にまかせて一緒にいられないと言うなら、キリストを知らない者になる。主がなぜ来られたか、何を教えられたのか思い出してほしい、とパウロは願っているのです。 主イエスは神の見方を教えてくださいました。目が二つあるのは、一方で人の視点で見、もう一方で神の視点で見るためだと、ある人は言いま

思い出す言葉 石丸泰信牧師 ルカによる福音書24章1-12節

説教趣旨4月21日 録音 復活祭 主日礼拝「思い出す言葉」 石丸泰信牧師 ルカによる福音書24章1-12節 主イエス・キリストの復活の日曜日に、わたしたちは礼拝をささげています。主イエスが十字架にかけられたとき、人々は思ったでしょう。力ある言葉と業で自分たちを驚かせたこの人も権力の前では無力だった、と。しかし、神はこの方を復活させられました。人は打算的でない本当の愛に生きるとき、無力さや敗北感を思い知らされます。しかし、主の復活は、この愛にこそ本当の命があることを証しています。だからわたしたちは主の復活を何度でも祝い、「おめでとう」とあいさつします。 福音書の復活記事はあまりにもシンプルで、まるで復活の出来事それ自体にはあまり興味が無いかのようです。もし死者の復活を証明することが最も重要な目的であれば、もっと詳細を描くはずですが、ここに書かれているのは墓で途方に暮れる婦人たちの姿と、そこに現れた天使の言葉だけです。 もしも復活の主がここに座っていてくだされば、婦人たちが途方に暮れることもなかったのにと思います。婦人たちが墓を訪れると、石がわきに転がしてあり「主イエスの遺体が見当たらなかった」とあります。ルカ福音書では、イエスを「主イエス」と呼ぶのはここだけです。ルカがこの後に記した使徒言行録には「主イエス」という言葉が何度も登場します。実はルカは復活のイエスにだけ「主イエス」という言葉を用いるのです。「主イエスの遺体が見当たらなかった」というのは、復活の主イエスは目に見えないということを暗に示しています。婦人たちは、目には見えない方を探していたのです。 ルカは、この場面をとてもシンプルに書いています。主の姿も出てきません。そして他の福音書記者たちが描くようないろいろなエピソードも省いています。ルカの記事の中心は、途方に暮れる婦人たちの姿です。ガリラヤから主と共に歩いてきた婦人たちは、主の遺体を運んで一緒に帰りたいほどの思いを持っていたと思います。しかし、それができないので、遺体に香料を塗り最後の別れをするつもりでした。ところが、墓にあるはずの遺体がない。だから立ち尽くしている。 ここに行けばあるはずのものがなかった、という経験をすると、わたしたちも身動きがとれなくなる。これをすれば幸せになれると思っていたものがそうではなかったとき、わたしたちはどうしたらよいかわから

正しい人の十字架の死 小松美樹伝道師 ルカによる福音書23章44-49節

説教趣旨4月14日 録音 主日礼拝「正しい人の十字架の死」 小松美樹伝道師  ルカによる福音書23章44-49節 教会の暦の「棕櫚の主日」を迎えました。棕梠の主日から受難週になります。木曜日には主イエスは最後の食事を弟子たちと共に食し、その後ゲッセマネで祈られ、金曜日に十字架に架けられ死なれたのです。 長い十字架の上での苦しみがありました。けれども、聖書はその主イエスの十字架での痛み、苦しみについてあまり語らず、この時の「出来事」を描くのは、死の苦しみよりも、大切なことがあるからです。 救い主の死の時は暗闇でした。旧約聖書で言われていた「主の日」の様子です(アモス8:9 )。「垂れ幕は裂けた」というのは、ルカでは主の死の前に、全地が暗くなったときに起こります。アモス書で言われていた「その時」とは、人の暴力が支配する闇の時です(22:53)。人の猛威が振るい、闇が覆うその時、神と人との関係が完全に引き裂かれてしまった姿です。この闇の中、主イエスは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫ばれました。主の地上での最後のお言葉は神への信頼の言葉です。これは詩編31編の祈りであり、嘆きの中、苦しみの中、なおも神に信頼をおくことができるものが祈れる言葉です。主は十字架につけられる前、オリーブ山で祈りました。苦しみもだえ、汗が血の滴るような嘆きの祈りをもって、自分自身を通して神の意志が実現するように、神の意思を受け取られたのです。詩編は「まことの神、主よ」と祈られていますが、主イエスは「父よ」と祈ります。「父よ」と呼びかける親しい関係のまま、最後まで神は「わたしのお父さん」でした。死のその時まで神が共にいてくださることへの信頼をもって、「父よ」と叫ばれました。それはどこまでも神に背く者たちのために、今ここに集うことが許されている、私たちのための祈りです。この主の死は、新たな命へと迎え入れてくれる入り口となったのです。 主イエスの出来事を見ていた百人隊長は「本当にこの人は正しい人だった」と言います。百人隊長はこの刑の監督責任者で、最後まで目を離さずにいたことでしょう。異邦人である百人隊長が、主イエスの正しさを見て、神を賛美したのは、罪の有る無しではなく、主イエスの父なる神との深い、正しく確かな関係の中に生きる姿。またこの死をも、父なる神の御手の中にある死であることを確かに示して、

誰のための涙か 石丸泰信牧師 ルカによる福音書23章26-43節

説教趣旨4月7日 録音 聖餐式 主日礼拝「誰のための涙か」 石丸泰信牧師 ルカによる福音書23章26-43節 今日登場するキレネ人シモンは、出会いによって生き方が変わった人です。彼はキレネ(北アフリカ)からのエルサレム巡礼の途上で、主イエスの十字架を担ぐことになりました。最初は群衆の中の一人だったのが、不意に捕まえられ、無理に十字架を背負わせられたのです。興味深いことは、他の福音書で彼は「ルフォスとアレクサンドロの父、シモン」(マルコ15:21)と紹介されていることです。おそらく、シモンはエルサレムからキレネに帰って自分が遭遇した十字架の出来事を家族に語り伝えたのでしょう。このシモンの家族が、初代教会で重要な役割を担ったルフォスだと考えられています(ローマ16:13)。 シモンは十字架を背負わせられた時、この場に居合わせたことを後悔したかもしれません。理不尽な思いでいたかもしれません。あるとき主イエスはこのように言われました。「わたしの後に従いたい者は…自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)。彼は十字架を背負い、主に従いました。しかし、それは積極的な動機からのものではありません。いつの間にか負わされていた。わたしたちは「自分の十字架とは何か」と考えますが、理不尽さを感じながら重荷を引き受けるとき、それがわたしたちにとっての十字架なのだと思います。 鞭打たれ、傷ついた主の背中を見て歩いたシモンは、主の最期をいちばん近くでの見届ける人となりました。彼は主イエスの最期の言葉を聞きました。十字架の上で主が祈られた祈り。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。そして、一緒に十字架にかけられた犯罪人との会話。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と犯罪人の一人が言うと、主は言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。 例えば、わたしたちが死を迎えるとき、だれかに「いつまでもわたしのことを忘れないでね」と言って別れることができたら、それは良い別れなのだと思います。わたしたちは臨終のときに苦しむか苦しまないかといったことをよく話題にしますが、もし、苦しみの中で死を迎えるとしても、「いつまでもわたしを忘れないでね」と言える相手がいたとしたら、それはとても幸せな