思い出す言葉 石丸泰信牧師 ルカによる福音書24章1-12節

説教趣旨4月21日 録音


復活祭 主日礼拝「思い出す言葉」 石丸泰信牧師


ルカによる福音書24章1-12節
主イエス・キリストの復活の日曜日に、わたしたちは礼拝をささげています。主イエスが十字架にかけられたとき、人々は思ったでしょう。力ある言葉と業で自分たちを驚かせたこの人も権力の前では無力だった、と。しかし、神はこの方を復活させられました。人は打算的でない本当の愛に生きるとき、無力さや敗北感を思い知らされます。しかし、主の復活は、この愛にこそ本当の命があることを証しています。だからわたしたちは主の復活を何度でも祝い、「おめでとう」とあいさつします。
福音書の復活記事はあまりにもシンプルで、まるで復活の出来事それ自体にはあまり興味が無いかのようです。もし死者の復活を証明することが最も重要な目的であれば、もっと詳細を描くはずですが、ここに書かれているのは墓で途方に暮れる婦人たちの姿と、そこに現れた天使の言葉だけです。
もしも復活の主がここに座っていてくだされば、婦人たちが途方に暮れることもなかったのにと思います。婦人たちが墓を訪れると、石がわきに転がしてあり「主イエスの遺体が見当たらなかった」とあります。ルカ福音書では、イエスを「主イエス」と呼ぶのはここだけです。ルカがこの後に記した使徒言行録には「主イエス」という言葉が何度も登場します。実はルカは復活のイエスにだけ「主イエス」という言葉を用いるのです。「主イエスの遺体が見当たらなかった」というのは、復活の主イエスは目に見えないということを暗に示しています。婦人たちは、目には見えない方を探していたのです。
ルカは、この場面をとてもシンプルに書いています。主の姿も出てきません。そして他の福音書記者たちが描くようないろいろなエピソードも省いています。ルカの記事の中心は、途方に暮れる婦人たちの姿です。ガリラヤから主と共に歩いてきた婦人たちは、主の遺体を運んで一緒に帰りたいほどの思いを持っていたと思います。しかし、それができないので、遺体に香料を塗り最後の別れをするつもりでした。ところが、墓にあるはずの遺体がない。だから立ち尽くしている。
ここに行けばあるはずのものがなかった、という経験をすると、わたしたちも身動きがとれなくなる。これをすれば幸せになれると思っていたものがそうではなかったとき、わたしたちはどうしたらよいかわからなくなります。しかし、だからこそ、神はそこに天使を遣わします。
天使は言います。「なぜ生きた方を、死者の中に探すのか」。さらにこう言います。「あの方がお話しになったことを思い出しなさい」。この言葉を聞いた婦人たちはハッとしました。わたしたちは、まず約束があって、それが成就するという順序でものごとを考えます。しかし聖書は、出来事が成就した後、約束の言葉を思い出す、という順序で語ります。人は本当に必要な言葉を、すぐには信じられないのかもしれません。
石垣りんという詩人が、次のように書いています。第二次世界大戦中、日本は戦さに負けない神の国だと教えられたことを信じていた。死に赴く兵隊の悲惨さを思うよりも、その勇敢さに心を打たれた。弟が召集令状を受けたとき、わたしは両手をついて「おめでとうございます」と挨拶した。しかし、弟と二人で叔母を訪ねると、叔母は弟に言った。「おまえ、決死隊は前に出ろと言われて、『はい』なんて言って真っ先に出るのではないぞ」。非国民とも言えるこの叔母の言葉を、わたしは聞き捨てたつもりが、その響きの珍しさが耳に残った。「真っ先に出るのでないぞ」、つまり「死ぬな」「生きろ」という叔母の言葉に、本当の響きがあったからです。わたしたちが簡単に捨ててしまう言葉に、本当の愛が縫い付けられているならば、耳はその言葉を拾うのです。
主の弟子たちも婦人たちも主が話された言葉を逐一メモしていたわけではありません。婦人たちが今思い出したように、その多くは忘れていたはずです。しかし、主の言葉には本当の愛が縫い付けられているので、彼らは後になって思い出し、その言葉が真実であることに気づいた。聖書はそのようにして書かれました。神の約束が今信じられなくても、それに本当の愛の響きがあるなら、わたしたちの耳が拾うでしょう。信じられず墓のような暗闇で立ち尽くしているわたしたちのもとに、神は天使を遣わし、気づかせてくださるのです。