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1月, 2020の投稿を表示しています

メリットもないのに、人は愛するでしょうか 石丸泰信牧師 ヨブ記1章9-22節

説教要旨 1月26日 録音 「メリットもないのに、人は愛するでしょうか」 石丸泰信牧師 ヨブ記1章9-22節 「ヨブは利益もないのに神を敬うでしょうか」。どうでしょうか。適当にごまかしてはいけない言葉だと思います。なぜなら、これはサタンの問いだからです。対してヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸で帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と応えました。ある人は、これを「これ以上の信仰の言葉はない」と言います。ヨブが、理由なしに神が与え、また奪うことのその全てに感謝し、信頼を示した、しかも、葛藤のただ中で示したからです。 サタンにとって驚きの言葉であったと思います。しかし、サタンには確信がありました。「信仰には本音があるはずだ」。危害のないところでは綺麗事を言えても、少し揺さぶってみれば、すぐに本音が見えるだろう。2章になるとサタンはヨブに本音を吐かせるには、財産と子どもを奪うだけでは足りないと思い、より深刻な打撃を開始します。その結果、ヨブは全身が腫瘍に覆われ、皮膚は崩れ落ちていきました。皮膚の破れは、当時、穢れであり、神に処罰された呪いの象徴でした。しかし、彼は言います。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」。これは神への短い賛美の言葉です。この日、この言葉が天地に響き渡るとサタンはもう黙ってしまいました。 サタンが確信していた人の本音とは信仰の対価としての幸福の追求です。人は不幸を避けるために神を信じているのだろう。これがサタンの確信です。時に、聞くことがあると思います。そんなことをしたら罰が当たるとか、どうして神を信じているのに悪いことが起こるのか、とか。そこには神を信じていたら幸せになれるはずという、因果応報の思いがあるのでしょう。 スヌーピー(ピーナッツ)というマンガの作者、チャールズ・シュルツは「人は自分の信じていることを信じているんだ」と言います。ライナスという男の子がサンタクロース宛の手紙を出そうとすると、女の子のルーシーは「欲深いわね。何通目?」と聞きます。彼は答えます。「欲深いわけではないよ。当然の報酬なんだ。ぼくが良い子だったら借りができるんだよ」。「サンタは、あなたに借りなんてないわよ」とルーシー。可愛らしい話ですが、サンタを神に言い換えたら、多くのキリスト者が神さまに対して取る態度に似てい

あの経験は、この時のためだったのかもしれない 小松美樹伝道師 エステル記4章4-16節

説教要旨 1月19日 録音 「あの経験は、この時のためだったのかもしれない」 小松美樹伝道師 エステル記4章4-16節 エステル記はエステルというユダヤ人女性の物語です。ペルシャのクセルクセス王の妃に選ばれ、同胞のユダヤ人たちの危機に際し、エステルと養父モルデカイが知恵と勇気と信仰をもって彼らを救う出来事が描かれています。  モルデカイという人物は、ユダヤ人の捕囚の民の子孫でした。彼は「どの民族のものとも異なる独自の法律を有し、王の法律には従いません」(3:8)でした。そのことに、王の大臣ハマンから嫌厭され、モルデカイだけではなくユダヤ人を皆滅ぼす計画が立てられました。その事実を知ったモルデカイは、それを阻止できるのは、あなただけだとエステルに伝え、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」と伝えます。この言葉がエステルにとっての転換点となり、変わって行きます。自分に与えられているこの状況を使命として受け止めたのだと思います。それまでのエステルは、モルデカイに言われたことだけを守り、動いてきました。しかし、この使命を受け止めた時、自ら動き出しました。エステルはモルデカイに「私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。」と言います。つまり断食して三日間執り成しの祈りをして欲しいと求めました。どうしたら良いのか、その歩むべき道を問うために、神のご意思を見逃さずに聴き取る為に祈らずにはいられなかったのでしょう。エステルが置かれているのは、何か強いられる状況であり、せっかく持っているものを手放すことであり、せっかく受かったものを辞退することや、安全な生活を捨てるようなことでもあります。大きな決断で、それは祈らなければ歩めないのです。王妃に選ばれたことは、予期していたことではありませんでした。しかし、この時のために、神は自分を王妃にしたのだと、歩み出せたのはエステルの欠けや弱さを埋める、神への信頼があったからです。エステルは神への信頼だけを持って王の前に出ることができましたし、モルデカイは神に従っているからこそ、自分の務めをしっかりと果たせたのだと思います。  「この時のために」という状況や神からの使命というのは、私たちの身近な生活の中にも見出すことができるのだと思います。またそれは、本人が願ってい

主を喜び祝うことこそ力の源 石丸泰信牧師 ネヘミヤ記8章1-12節

説教要旨 1月12日 録音 「主を喜び祝うことこそ力の源」石丸泰信牧師 ネヘミヤ記8章1-12節 大勢の人が広場に集まっています。 「男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達したものは皆いた」 といいます。そして 「祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た」 、 「夜明けから正午までそれを読み上げた」 と言います。これは長い礼拝の始まりでした。礼拝とは何か。第一には「神と出会う場所」です。第二に、礼拝は「隣人と出会う場所」です。礼拝のプログラムは、一人ひとりがバラバラに動きません。 「一人の人のように」 なって、一緒に祈り、歌い、共に聞きます。礼拝に孤独はありません。神の民が大勢いることを発見する場所です。また、執り成しの祈りにおいて、今まで意識したこともない人々と出会う場所です。第三に「自分自身と出会う場所」です。自分を知る。それは独り、瞑想すれば、わかるというものではない。神との出会い、隣人との出会いを通して、初めて自分に出会います。そして、それに加えて嘆きや涙が起こると、今日、聖書は言います。礼拝は嘆きが起こる場所。同時に 「嘆いたり、泣いたりしてはならない」 と言われる場所です。 「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた」 と言います。久しぶりの礼拝、あるいは、初めての礼拝であったからです。紀元前587年、イスラエル王国は戦争に負け、捕虜となって敵国に連れて行かれました。バビロン捕囚です。後、およそ50年経って、当時の帝国の王・キュロスは帰国命令を出します。段階的に帰還しました。その内の第二陣に祭司エズラがいました。続く第三陣にネヘミヤ。もう捕囚から70年が経っていました。おそらく帰還してきた人のほとんどがバビロニア生まれです。もちろん、バビロニアで暮らしていても、自分たちが神の民であるというアイデンティティを持っていたと思います。帰る場所があること、聞くべき言葉があること。いつも忘れていなかったと思います。けれども、神の民と共に献げる初めての礼拝が今日だったのです。なぜ、泣いたのか。律法を聞いたとき、わかったのだと思います。神を知っていると思っていたが、神の思いは全然違うところにあったこと。自分自身のことを全然知らなかったこと。礼拝なしの信仰生活では、神と出会い、隣人と出会い、自分自身と出会うことはなかったのです。 主の弟子のペトロは、あるとき、主

博士たちの礼拝 石丸泰信牧師 マタイによる福音書2章1-11節

説教要旨 1月5日 録音 聖餐礼拝(主日礼拝)「博士たちの礼拝」石丸泰信牧師 マタイによる福音書2章1-11節 星に導かれて、東方の博士たちがキリストを訪ねてやってきたという物語を読みました。よく知られている話だと思います。けれども、ある人は「これは驚かされることではないか」と言います。「占星術で生活をしていた人ではないか」と。東方、つまりバビロニアの占星術は古代世界に大きな影響を与えた運命信仰でした。人は誰でも、自分の運命に従って生きている。占星術の学者というのは、それを信じて疑わない人たちでした。その人たちがやってのは驚きだ、というわけです。一見、現代のわたし達には関係のない驚きのように聞こえます。しかし、パウロもこう言います。「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」(ガラテヤ4:10)。パウロは明らかに占星術によって人間の運勢・運命を判断しようとする人の本性を批判しています。ここで彼は、雑誌やテレビの運勢占いとか、日本の暦の風習に従うことを批判しているのではありません。運命論です。「キリストを信じていると言いながら、運命論に心が支配されているのだとすれば、自分の苦労は無駄。いや、自分はどうでも良い。あなたたちが心配です」。  誰もが、自分の運命、つまり自分の将来が定まっているのであれば知りたいと思うと思います。自分の人生がどこへ向かうのかわからない不安があるからです。ところが、占星術は、星が定められた通りの動きをしているのと同様に、あなたの将来も定まっているのだと教えてくれるわけです。もちろん知るのが恐いという思いもあるかも知れない。けれども、たとえ目を見張る将来でなかったとしても、先に知ることができれば、受容し、備えることができる。これがわたしの人生さ、と諦めにも似た安堵を得ることができる。  バビロニアの占星術は、厳然として動かないように見える北極星を中心になり立っていました。しかし、運命や定めを否定するかのように、あるいは、人は変わり得るのだと言わんばかりに星が動き出したのです。占星術の常識は覆されました。そしてそのとき、学者たちは気がついたわけです。星が、世界のすべてを定めているのではなくて、動かないはずの星を動かす方がいるのだ。その発見