あの経験は、この時のためだったのかもしれない 小松美樹伝道師 エステル記4章4-16節

説教要旨 1月19日 録音


「あの経験は、この時のためだったのかもしれない」 小松美樹伝道師

エステル記4章4-16節

エステル記はエステルというユダヤ人女性の物語です。ペルシャのクセルクセス王の妃に選ばれ、同胞のユダヤ人たちの危機に際し、エステルと養父モルデカイが知恵と勇気と信仰をもって彼らを救う出来事が描かれています。

 モルデカイという人物は、ユダヤ人の捕囚の民の子孫でした。彼は「どの民族のものとも異なる独自の法律を有し、王の法律には従いません」(3:8)でした。そのことに、王の大臣ハマンから嫌厭され、モルデカイだけではなくユダヤ人を皆滅ぼす計画が立てられました。その事実を知ったモルデカイは、それを阻止できるのは、あなただけだとエステルに伝え、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」と伝えます。この言葉がエステルにとっての転換点となり、変わって行きます。自分に与えられているこの状況を使命として受け止めたのだと思います。それまでのエステルは、モルデカイに言われたことだけを守り、動いてきました。しかし、この使命を受け止めた時、自ら動き出しました。エステルはモルデカイに「私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。」と言います。つまり断食して三日間執り成しの祈りをして欲しいと求めました。どうしたら良いのか、その歩むべき道を問うために、神のご意思を見逃さずに聴き取る為に祈らずにはいられなかったのでしょう。エステルが置かれているのは、何か強いられる状況であり、せっかく持っているものを手放すことであり、せっかく受かったものを辞退することや、安全な生活を捨てるようなことでもあります。大きな決断で、それは祈らなければ歩めないのです。王妃に選ばれたことは、予期していたことではありませんでした。しかし、この時のために、神は自分を王妃にしたのだと、歩み出せたのはエステルの欠けや弱さを埋める、神への信頼があったからです。エステルは神への信頼だけを持って王の前に出ることができましたし、モルデカイは神に従っているからこそ、自分の務めをしっかりと果たせたのだと思います。

 「この時のために」という状況や神からの使命というのは、私たちの身近な生活の中にも見出すことができるのだと思います。またそれは、本人が願っていないことや、最初から予期していなかったことの方が多いと思います。私たちの得意なことに限らず、苦い経験や痛みを伴うこともあると思います。どうしてこんな目に合わなくてはいけないんだとか、面倒なことを押し付けられたと思うようなこともあるでしょう。たまたま自分が抜擢されたというのであれば、断る理由は幾らでも見つけることができると思います。けれども、神がこの為に私を用いようとされていると信頼するのなら、先の事は分からなくとも神を信じて一歩踏み出してみることができると思います。

 「もしかすると、この時のために」と思えるようなことが誰にもあると思います。それが何に基づいて、そう思うのかが大切であり、大きな違いだと思います。「あれはこの時のためだったのか」と気づくことのできる信仰が与えられていることは幸いであると思います。神からの使命があることを知らなければ、神への信頼がなければ、自分の思いや不安に負けてしまいます。

 エステルが担うのは「神の民全体の課題」なのだと聖書は言います。なぜ自分がそんなことを受け追わなければいけないのか?と思うことだってあると思います。自分の事だけで精一杯なのに、他の人の事まで手は回らないとも思うでしょう。けれども、私たちは、神がこの地に送ってくださった主イエスによって、そのような生き方を示されていることに目を止めたいと思います。エステル記はユダヤ人の民族意識と絆を強めた出来事でした。ユダヤ教では新約聖書のイエス・キリストの教えがないからこそ、このエステル記が大切に読まれてきたのだと思います。エステルは民全体の命を自分の命の問題として王に願い出ました。それは主イエスが人となられ、私たちの罪のために命を捧げられた姿と重なります。命を捨てることは私たちにとって到底、真似できるものではありません。けれども、主イエスの隣人を愛するお姿を私たちは知らされています。神の御旨を問いながら世に仕え、モルデカイを通してエステルが気づかされたように、神の言葉を身につけて歩んで参りましょう。