博士たちの礼拝 石丸泰信牧師 マタイによる福音書2章1-11節

説教要旨 1月5日 録音


聖餐礼拝(主日礼拝)「博士たちの礼拝」石丸泰信牧師


マタイによる福音書2章1-11節
星に導かれて、東方の博士たちがキリストを訪ねてやってきたという物語を読みました。よく知られている話だと思います。けれども、ある人は「これは驚かされることではないか」と言います。「占星術で生活をしていた人ではないか」と。東方、つまりバビロニアの占星術は古代世界に大きな影響を与えた運命信仰でした。人は誰でも、自分の運命に従って生きている。占星術の学者というのは、それを信じて疑わない人たちでした。その人たちがやってのは驚きだ、というわけです。一見、現代のわたし達には関係のない驚きのように聞こえます。しかし、パウロもこう言います。「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」(ガラテヤ4:10)。パウロは明らかに占星術によって人間の運勢・運命を判断しようとする人の本性を批判しています。ここで彼は、雑誌やテレビの運勢占いとか、日本の暦の風習に従うことを批判しているのではありません。運命論です。「キリストを信じていると言いながら、運命論に心が支配されているのだとすれば、自分の苦労は無駄。いや、自分はどうでも良い。あなたたちが心配です」。

 誰もが、自分の運命、つまり自分の将来が定まっているのであれば知りたいと思うと思います。自分の人生がどこへ向かうのかわからない不安があるからです。ところが、占星術は、星が定められた通りの動きをしているのと同様に、あなたの将来も定まっているのだと教えてくれるわけです。もちろん知るのが恐いという思いもあるかも知れない。けれども、たとえ目を見張る将来でなかったとしても、先に知ることができれば、受容し、備えることができる。これがわたしの人生さ、と諦めにも似た安堵を得ることができる。

 バビロニアの占星術は、厳然として動かないように見える北極星を中心になり立っていました。しかし、運命や定めを否定するかのように、あるいは、人は変わり得るのだと言わんばかりに星が動き出したのです。占星術の常識は覆されました。そしてそのとき、学者たちは気がついたわけです。星が、世界のすべてを定めているのではなくて、動かないはずの星を動かす方がいるのだ。その発見が彼らを旅立たせたわけです。彼らは、この世界には、経験上、自分の予想に反することは起こらないと信じていました。しかし、それは違っていたのです。私たちも、すべて知っていると思っていることあると思います。わたしたちは自分の人生の専門家です。知らないことはない。なんでも説明できます。「あの人は育ちが良いからできるのだ。自分は違う。できない」。「あの人は何々があるから」、「わたしはもう何々だから」。この言葉に省略されているのは、「だって、わたしは、その星の下に生まれたのだから」という占星術的運命論だと思います。そのようにして将来を諦めることは仕方のないことなのだと、自分も周りも説得して回ってしまう。

 動かないはずの星、それは動くことのない将来のしるしでした。それが動いてしまった。その後では、もはや、今まで通りの生き方はできなくなった。これは彼らの回心です。星ではなく、星をも動かす方を信頼して、知らない将来へと歩き出す。彼らは新しい人生を始めました。

その対比として描かれているのがヘロデの姿です。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々皆、同様であった」。ヘロデは、これまでの生き方を守りたかった。だから、不安になったのです。そしてエルサレムの人々も皆、同様であったと言います。これは、エルサレムの住民だけを意味していません。神の都エルサレム。神を信じる人々も皆、同様だった。信仰者もまた、クリスマスの出来事なんて、なかったかのように生きたかったのです。

ある人は、演奏会には二つの感動があると言います。一つは、その演奏を聴いて感動すること。聞く人に与えられる感動です。もう一つは、演奏を演じて感動すること。それは演奏者だけが知り得る感動です。出来事を端から見聞きしている人には知ることのできない、出来事に関わる人たちだけの感動です。そしてクリスマスの喜びは、出来事に巻き込まれて初めてわかる喜びなのだと思います。

もう一つの喜びは、目に留められていることを知る喜びです。主イエスの生まれたベツレヘムはユダヤの片隅の町です。大きな町ではない。しかし、そこが神の最大の関心事になりました。ある人は、息子がホームステイで外国に行くことが決まったとき、それまで場所すら知らなかった、その町を毎日調べるようになったと言います。待ちのニュースを調べ、天気を調べる。そこに息子がいるのだから。星を動かし占星術の学者たちを導いた神も同じ思いであったと思います。神の全神経が彼らに注ぐ。そして、彼らは何でもない町の何でもない家に王を見つけます。そのとき、思ったと思います。人に目に、なんでもないと見えるところにでも、神は出来事を起こされる。もう何も起こらないと思っていたわたしに目を留め、その将来を動かしてしまったように。