主を喜び祝うことこそ力の源 石丸泰信牧師 ネヘミヤ記8章1-12節

説教要旨 1月12日 録音


「主を喜び祝うことこそ力の源」石丸泰信牧師


ネヘミヤ記8章1-12節

大勢の人が広場に集まっています。「男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達したものは皆いた」といいます。そして「祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た」「夜明けから正午までそれを読み上げた」と言います。これは長い礼拝の始まりでした。礼拝とは何か。第一には「神と出会う場所」です。第二に、礼拝は「隣人と出会う場所」です。礼拝のプログラムは、一人ひとりがバラバラに動きません。「一人の人のように」なって、一緒に祈り、歌い、共に聞きます。礼拝に孤独はありません。神の民が大勢いることを発見する場所です。また、執り成しの祈りにおいて、今まで意識したこともない人々と出会う場所です。第三に「自分自身と出会う場所」です。自分を知る。それは独り、瞑想すれば、わかるというものではない。神との出会い、隣人との出会いを通して、初めて自分に出会います。そして、それに加えて嘆きや涙が起こると、今日、聖書は言います。礼拝は嘆きが起こる場所。同時に「嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言われる場所です。

「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた」と言います。久しぶりの礼拝、あるいは、初めての礼拝であったからです。紀元前587年、イスラエル王国は戦争に負け、捕虜となって敵国に連れて行かれました。バビロン捕囚です。後、およそ50年経って、当時の帝国の王・キュロスは帰国命令を出します。段階的に帰還しました。その内の第二陣に祭司エズラがいました。続く第三陣にネヘミヤ。もう捕囚から70年が経っていました。おそらく帰還してきた人のほとんどがバビロニア生まれです。もちろん、バビロニアで暮らしていても、自分たちが神の民であるというアイデンティティを持っていたと思います。帰る場所があること、聞くべき言葉があること。いつも忘れていなかったと思います。けれども、神の民と共に献げる初めての礼拝が今日だったのです。なぜ、泣いたのか。律法を聞いたとき、わかったのだと思います。神を知っていると思っていたが、神の思いは全然違うところにあったこと。自分自身のことを全然知らなかったこと。礼拝なしの信仰生活では、神と出会い、隣人と出会い、自分自身と出会うことはなかったのです。

主の弟子のペトロは、あるとき、主イエスに聞きました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」(マタイ18:21-)。主は即答します。「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」。わたし達であれば、7回を待たずに相手と疎遠になるかもしれない。ペトロもすごい。けれども、主はさらに上を行きます。7の70倍。つまり、赦しに限度はないと言われたのです。この差は何か。ペトロやわたし達は、人を赦すか否かの時、自分は1度も罪を犯したことのないかのように錯覚して、まるで裁判官になったつもりで、人のことを見ます。そして、この人は、まだ赦す価値があるか否か、指折り数えてしまう。しかし、主は、ペトロが幾度となく神に赦され、人に赦され、受け入れられて生きてきたことを知っていました。だから、あなたも同じようにしなさいと言われたのです。

この時、ペトロは悲しかったと思います。自分は神を信じていると口では言いつつ、その神の思いも自分の傲慢さも全然知らなかった。今日、人々も同じだったのだと思います。神を知っていると思っていた。けれども、自身の罪深さを知らなかった。彼らは自分自身に泣いたのです。けれども、エズラは「嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言います。なぜか。律法には、罪に気がつくための言葉が書かれていると同時に、その罪を贖う神の姿、約束が書かれているからです。

 悲しみと喜びは相反することです。しかし、主イエスは「悲しむ人は幸いである」と言われます。悲しみは幸いだから、そのままが良いという現状肯定の意味合いはありません。むしろ、この「幸い」という言葉は「自分自身に悲しむ、その悲しみを大切にして立ち上がりなさい」という励ましと祝福です。なぜ、そう言えるのか。神の思いと重なっているからです。だから、自分自身をきちんと悲しめる人は、神の言葉、聖書の言葉をきちんと理解することができるのだと思います。

礼拝の後、祝会が開かれました。エズラは「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源」と言います。人に無理強いされても喜べません。しかし、彼らは「備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った」と言います。「教えられたことを理解したから」です。この礼拝で、神と出会い、赦せない隣人と出会い、赦されている自分自身と出会ったのです。この祝会は、ただ、おいしかった。楽しかったで終わらない、隣人と分かち合い、自分の悲しみを噛みしめた喜びの祝会です。

わたし達は誰かに怒られたとき、謝りたくない気持ちで一杯だと思います。本当は謝りたくないけれども、その場を治めるためにしぶしぶ謝罪するかもしれません。けれども、その自分の過ちを、こちらが謝るかどうか関係なく赦し、迎え入れてくれたときには、きっと大泣きして、謝りたくて仕方ない気持ちになるのだと思います。父親に迎え入れられた放蕩息子のように。それが、この礼拝で起こったことです。