メリットもないのに、人は愛するでしょうか 石丸泰信牧師 ヨブ記1章9-22節

説教要旨 1月26日 録音


「メリットもないのに、人は愛するでしょうか」 石丸泰信牧師

ヨブ記1章9-22節

「ヨブは利益もないのに神を敬うでしょうか」。どうでしょうか。適当にごまかしてはいけない言葉だと思います。なぜなら、これはサタンの問いだからです。対してヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸で帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と応えました。ある人は、これを「これ以上の信仰の言葉はない」と言います。ヨブが、理由なしに神が与え、また奪うことのその全てに感謝し、信頼を示した、しかも、葛藤のただ中で示したからです。

サタンにとって驚きの言葉であったと思います。しかし、サタンには確信がありました。「信仰には本音があるはずだ」。危害のないところでは綺麗事を言えても、少し揺さぶってみれば、すぐに本音が見えるだろう。2章になるとサタンはヨブに本音を吐かせるには、財産と子どもを奪うだけでは足りないと思い、より深刻な打撃を開始します。その結果、ヨブは全身が腫瘍に覆われ、皮膚は崩れ落ちていきました。皮膚の破れは、当時、穢れであり、神に処罰された呪いの象徴でした。しかし、彼は言います。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」。これは神への短い賛美の言葉です。この日、この言葉が天地に響き渡るとサタンはもう黙ってしまいました。

サタンが確信していた人の本音とは信仰の対価としての幸福の追求です。人は不幸を避けるために神を信じているのだろう。これがサタンの確信です。時に、聞くことがあると思います。そんなことをしたら罰が当たるとか、どうして神を信じているのに悪いことが起こるのか、とか。そこには神を信じていたら幸せになれるはずという、因果応報の思いがあるのでしょう。

スヌーピー(ピーナッツ)というマンガの作者、チャールズ・シュルツは「人は自分の信じていることを信じているんだ」と言います。ライナスという男の子がサンタクロース宛の手紙を出そうとすると、女の子のルーシーは「欲深いわね。何通目?」と聞きます。彼は答えます。「欲深いわけではないよ。当然の報酬なんだ。ぼくが良い子だったら借りができるんだよ」。「サンタは、あなたに借りなんてないわよ」とルーシー。可愛らしい話ですが、サンタを神に言い換えたら、多くのキリスト者が神さまに対して取る態度に似ていると思います。神の喜ばれることをすることによって神は自分に借りができる。つまり、神は、その人の信仰の度合いに従って、幸不幸を与える。それでフェアという態度です。しかし、それでは、自分が信じている信仰のシステムを信じているのであって、神ご自身を信じているのではないでしょうというのがシュルツの言いたいことです。

後で、ヨブの友人たちも彼の元を訪れ、ヨブと共に悲しみますが次第に議論になっていく場面があります。そこでの友人たちの主張(信じていること)を一言で言えば、やはり因果応報でした。ヨブの不幸は自身の罪のせい。三者三様、ヨブを捲し立てます。ヨブが罪を認めてくれれば、自分たちのこれまで信じていたことが報われる。反対に言えば、ヨブの言うとおり、彼が正しい人で、それなのに不幸の有様では自分たちの信じていることの土台が揺らぐからです。神は因果応報でないと困るのです。

ヨブは町の有力者として奉仕と福祉に生きていました。だから彼は知っています。この世界は因果律に収まるものではない。机上の空論ばかりの三人は、正しい人が生活苦にあえぐ現実を知らないだけだと(24章)。ヨブにとって今までの健康、地位、家族は神からの正当な報酬ではありませんでした。ただただ神の贈り物としての恵み。だから「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言えるのです。

サタンの問いを言い換えれば「メリットもないのに人を愛するでしょうか」とも言い換えられます。どうでしょうか。「Fire・Proof」という映画では、離婚回避のために愛の実戦を行います。しかし、挫折しそうになる。主人公は、愛は、愛の行為に対して相手が敬意(ありがとう)を払って初めて成立すると信じていたからです。だから受け取られないのなら愛する意味はないと考えます。しかし、主の十字架を知って愛を学びます。愛とは、ただ、自分を相手に渡すこと。神学生の頃、愛の種類を学びました。アガペー(自分を与えるだけ・神の愛)とエロース(得ることを求める)です。その際、人にはエロースの愛しか備わっていないと言われました。わたしは反発しました。しかし、教授はこう話されました。ある中年女性の介護士が担当してる人の中に、何をしてあげても悪態はつくけれど笑顔も感謝もない方がいた。介護士はそれでも良いと思っていた。わたしは、この人を愛してすべきことをする。それだけ、と。けれども、新人の若い介護士が入って、まもなく、その方が、その若い看護師に、笑顔でありがとうと言っている場面に遭遇します。その時、涙が止まらなかったそうです。見たかった笑顔、言ってほしかった言葉が今、他の人に向けられている。そのとき、ああ、自分は本当は、これを求めていたのだ、と気がついたというのです。敬意を払われないで平気な人なんていません。それを知っている人ほど、人の愛に敬意を払います。人にはエロースしかないかも知れない。しかし、本当にその愛に仕えるとき、無償の神の愛の大きさを知るのだと思います。サタンの問いに、こう答えたいと思います。「その愛に近づこうと思っています。主がそうされたことを知っているからです。」