誰のための涙か 石丸泰信牧師 ルカによる福音書23章26-43節

説教趣旨4月7日録音


聖餐式 主日礼拝「誰のための涙か」 石丸泰信牧師


ルカによる福音書23章26-43節
今日登場するキレネ人シモンは、出会いによって生き方が変わった人です。彼はキレネ(北アフリカ)からのエルサレム巡礼の途上で、主イエスの十字架を担ぐことになりました。最初は群衆の中の一人だったのが、不意に捕まえられ、無理に十字架を背負わせられたのです。興味深いことは、他の福音書で彼は「ルフォスとアレクサンドロの父、シモン」(マルコ15:21)と紹介されていることです。おそらく、シモンはエルサレムからキレネに帰って自分が遭遇した十字架の出来事を家族に語り伝えたのでしょう。このシモンの家族が、初代教会で重要な役割を担ったルフォスだと考えられています(ローマ16:13)。
シモンは十字架を背負わせられた時、この場に居合わせたことを後悔したかもしれません。理不尽な思いでいたかもしれません。あるとき主イエスはこのように言われました。「わたしの後に従いたい者は…自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)。彼は十字架を背負い、主に従いました。しかし、それは積極的な動機からのものではありません。いつの間にか負わされていた。わたしたちは「自分の十字架とは何か」と考えますが、理不尽さを感じながら重荷を引き受けるとき、それがわたしたちにとっての十字架なのだと思います。
鞭打たれ、傷ついた主の背中を見て歩いたシモンは、主の最期をいちばん近くでの見届ける人となりました。彼は主イエスの最期の言葉を聞きました。十字架の上で主が祈られた祈り。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。そして、一緒に十字架にかけられた犯罪人との会話。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と犯罪人の一人が言うと、主は言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。
例えば、わたしたちが死を迎えるとき、だれかに「いつまでもわたしのことを忘れないでね」と言って別れることができたら、それは良い別れなのだと思います。わたしたちは臨終のときに苦しむか苦しまないかといったことをよく話題にしますが、もし、苦しみの中で死を迎えるとしても、「いつまでもわたしを忘れないでね」と言える相手がいたとしたら、それはとても幸せなことです。皆さんはこういう言葉を誰に残したいでしょうか。そのようなことを考えていて、改めて驚かされるのは、この犯罪人が十字架というもっとも悲惨な場所で「わたしを忘れないでください」と言える相手がいたということです。
この人はなぜ十字架刑となったのでしょう。最初から犯罪人になりたい人はいません。ある人は、犯罪人とは、そうせざるを得ないところにまで追い込まれてしまういちばん弱い人だ、と言います。この死刑となった犯罪人は十字架の上で「自分の人生は一体何だったのだろうか」と思うかもしれません。犯罪人がかけられる十字架は、ののしりと暴力の場所です。十字架の周りを取り巻くのは、自分を追い詰めた人たちばかりです。ここで彼は、「覚えていろよ!この仕打ちを絶対に忘れないからな!」などと罵ったと言うならばわかるのですが、しかし彼は、こう言ったのです。「わたしのことを覚えていてほしい」と。この人は、今日、そういう相手と出会ったのです。
もし、主イエスが十字架の上ではなく、下にいたらどうだったでしょうか。もしもイエスが理不尽な裁判を怒り、訴えてきた人たちの不正を暴き、釈放され、十字架を負うことなく、人々と一緒に十字架の下にいたとしたら、この犯罪人は、「わたしを覚えていてほしい」などとは言えなかったと思います。もちろん、かつて、この犯罪人にも一緒に歩く友がいたはずです。しかし、いつの間にか彼は犯罪人の一人とされ、そうではない人たちにとって、あちら側の人、断絶された場所に行き着いた人とされてしまいました。しかし、その断絶を超えるために主は犯罪人の一人に数えられたのです。主は十字架の上で、彼と一緒にいました。
聖書はクリスマスの出来事を「インマヌエル」(神我々と共に)という名の救い主の誕生として伝えています(マタイ1:23)。聖書は、主なる神は我々と共にいる、あちら側にい行かないかぎり、とはは言わないのです。だからこそ、主は彼に言います。「ここは楽園だ。だって独りではないと。わたしはあなたを決して独りにはさせない」。キレネ人のシモンはこの言葉を聞き、自らが担いだ主の十字架を伝えたのです。