正しい人の十字架の死 小松美樹伝道師 ルカによる福音書23章44-49節

説教趣旨4月14日 録音


主日礼拝「正しい人の十字架の死」 小松美樹伝道師 


ルカによる福音書23章44-49節
教会の暦の「棕櫚の主日」を迎えました。棕梠の主日から受難週になります。木曜日には主イエスは最後の食事を弟子たちと共に食し、その後ゲッセマネで祈られ、金曜日に十字架に架けられ死なれたのです。
長い十字架の上での苦しみがありました。けれども、聖書はその主イエスの十字架での痛み、苦しみについてあまり語らず、この時の「出来事」を描くのは、死の苦しみよりも、大切なことがあるからです。
救い主の死の時は暗闇でした。旧約聖書で言われていた「主の日」の様子です(アモス8:9 )。「垂れ幕は裂けた」というのは、ルカでは主の死の前に、全地が暗くなったときに起こります。アモス書で言われていた「その時」とは、人の暴力が支配する闇の時です(22:53)。人の猛威が振るい、闇が覆うその時、神と人との関係が完全に引き裂かれてしまった姿です。この闇の中、主イエスは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫ばれました。主の地上での最後のお言葉は神への信頼の言葉です。これは詩編31編の祈りであり、嘆きの中、苦しみの中、なおも神に信頼をおくことができるものが祈れる言葉です。主は十字架につけられる前、オリーブ山で祈りました。苦しみもだえ、汗が血の滴るような嘆きの祈りをもって、自分自身を通して神の意志が実現するように、神の意思を受け取られたのです。詩編は「まことの神、主よ」と祈られていますが、主イエスは「父よ」と祈ります。「父よ」と呼びかける親しい関係のまま、最後まで神は「わたしのお父さん」でした。死のその時まで神が共にいてくださることへの信頼をもって、「父よ」と叫ばれました。それはどこまでも神に背く者たちのために、今ここに集うことが許されている、私たちのための祈りです。この主の死は、新たな命へと迎え入れてくれる入り口となったのです。
主イエスの出来事を見ていた百人隊長は「本当にこの人は正しい人だった」と言います。百人隊長はこの刑の監督責任者で、最後まで目を離さずにいたことでしょう。異邦人である百人隊長が、主イエスの正しさを見て、神を賛美したのは、罪の有る無しではなく、主イエスの父なる神との深い、正しく確かな関係の中に生きる姿。またこの死をも、父なる神の御手の中にある死であることを確かに示して、委ねる姿を見たからです。正しさとは、「神の前に正しくあった」ということです。見物に集まっていた人々は、これらの主の死と百人隊長の告白と賛美の出来事を見て、胸を打ち帰って行きました。それはへり下る姿であり、神を罵る方から、神を賛美する方へと帰って行ったのです。見物に集まっていた群衆、異邦の者たちにも、主の「神の前の正しさ」がわかったのだという、圧倒的な場面です。それは時代にも、場所にも左右されることのない、聖書が一貫して語る正しさです。
主イエスのしるし、奇跡は、神を指し示す光です。その光は十字架の死による、贖いを通して、すべての民へと照らされる光です。異邦人にも主の光が照らされる、ルカ福音書の初めから示されていたことです。「万人のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光」(2:31 -32)。また、ザカリアの預言の中に光の訪れとして「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道へと導く。」(1:78-79)
主の十字架の死の場面は、主イエスを知っていた全ての人たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たちは遠くに立って、これらのことを見ていた、と閉じられます。主イエスの弟子たちのことです。近づけない距離にいたのではなく、主を知っているからこそ、近くで見ていられず、もうダメだと絶望していたかもしれません。十字架刑は自分の大切な人であれば、辛くて目を背け、近くでは見ていられません。その心は恐怖に包まれます。そうして主の十字架の死により、暗闇に支配されたままの弟子たちの姿があったのです。
主イエスの光は、虐げられていた者たちだけを照らす光ではありません。虐げていた者たちをも照らし、また主を慕いつつも、ついていくことのできない弟子たち、私たちを照らし導く光です。「暗闇と死の陰に座している者たちを照らす」主イエスを通じて進められる神の計画は、主の復活によって、闇を散らす新しい朝の光です。暗闇、不安、恐怖の中で希望を見失おうとも、主イエスの「光」は闇に打ち勝つ力を持っています。