預言者エレミヤ 石丸泰信牧師 エレミヤ書1章4-10節

説教要旨 2月9日 録音


「預言者エレミヤ」 石丸泰信牧師

エレミヤ書1章4-10節 

エレミヤの召命です。召命はCallingとも言われます。電話のコールです。誰かが・・・神が呼んでいる。元々は司祭、修道士の務めに対して使われていました。しかし、宗教改革を経て一般の仕事に就くときもCallingという言葉は使われるようになります。そうすると仕事の意味合いが変わってきます。辞典を引けば「暮らしを立てるもの」が仕事の一般的な意味です。しかし、働くとは神の召しだと知っている人は、仕事とは、与えられた使命を果たすことだ、その為に呼ばれたということになります。しかし、それは職業に限定されないと思います。アブラハムが神のコーリングを自覚したのは75歳の時です。「行く先も知らぬまま、命じるところへ行け」。行く先も知らぬままというのは、その後の将来を神に任せて、ということです。しかし、出て行くこと自体が彼の使命ではありません。「全ての人の祝福の源となること」これが彼に与えられた使命。しかし、その実りは主イエスの十字架の死と復活を通して結びます。つまり、アブラハムは自分の使命の実りを見ないまま生涯を終えたのです。召しを受けたからといって、自分の人生に確信をもって生きられるというものではありません。何度も、これでいいのだろうか、と悩み、祈りながら生きる姿がアブラハムにもエレミヤにもあります。

 皆さんは選ばれたという感覚はありますでしょうか。それはなくて良いのだと思います。信仰生活は感じる生活ではなく、信じる生活です。選ばれていると自分が感じようと感じまいと神の召しの中におかれて今がある。それを信じて良いということです。何か理由があって、今、ここに呼び出されているのなら、ここで私のすべきこと(使命)とは何かという視点で、すべてのものを見るということです。そうであれば、あの頼まれ事は神の召し。この頼まれ事は違うというものではなくて、もっと全体的なことなのだと思います。主なる神は「わたしはあなたを母の胎に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し・・・」と言います。エレミヤは知らなかっただけで、彼の生涯は、まず神の選びから始まっていました。

 神の選びではなく、一つひとつ自分で選んだ結果が今なのだという方もあるかもしれません。けれども、それではどうしてキリスト者になったのでしょう。キリスト者の人生というのは、決して華々しい人生とは限りません。信仰ではどうにもならないこともあります。そして、何より、キリスト者故に苦しむということがあります。もしも、この人生は、自分で選んだのだというのであれば、なぜ、進んで苦しみのある人生を選んだのか。自分が選ぶだけの人生であれば、栄転に次ぐ栄転を追うべきだし、苦しみのない人生を選ぶべきでしょう。

苦しみ、悩みのない生活を送りたいと誰もが思うと思います。そのために何を選び、誰の言葉に従って生きたら良いか。誰もが教えてほしいと思います。けれども、あるとき、本の中で出会いました。「苦しみのない生活。そんなものはありません」という一節です。ああ、ないんだと思いました。どこかにあると信じているだけで、そんなものないのです。

苦しいときは、こんなはずじゃなかった、どこかで歯車が狂ってしまった、と言いたくなるかもしれません。しかし、どこかに本当のことがあるはずと思っているだけかもしれません。エレミヤが、これから語らなければいけないことも同じでした。人々は言います。こんなはずじゃない。すぐどうにかできるはずだ。対してエレミヤは言います。これが本当のことなんだ。エレミヤは召しを受けたとき「わたしは語る言葉を知りません」と言いました。若いとか経験がないから駄目なのではない。何を言えば良いのか分からなかったのです。対する神は「命じることを全て語れ」と言われます。それは何か。1章の中心に書かれているのは「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」という言葉です。前半の4つが接続詞で繋がれて一息に書かれています。そして、一息おいて「建て、植える」が一息に。ここに「間」があります。歴史的には神殿の崩壊、そして共同体の再建のことでしょう。しかし、象徴的には、わたし達の計画の崩壊。しかし、新しいことが始まるという預言です。計画取りに行かないとき、こんなはずじゃなかったと言いたくなります。しかし、エレミヤは、これは本当のことだとしっかり受け止めて、その「間」を生きよと言うのです。

ある先生が動物愛護団体からネコを引き取ってきたそうです。家に連れてきた頃はすごい食欲で、ネコのお腹はいつもパンパン。おそらく、いつ捨てられるか分からないから、溜め込めるだけ溜め込んでいたのだと言います。明日もあげるから言っても、もちろんネコは信じない。けれども、あるときから落ち着いたそうです。そして、同時に飼い主に目を注ぐようになったと言います。最初は目の前の餌だけを見ていた。しかし、今、その背後にいる、明日も食事をくれるだろう飼い主を信頼し始めたのです。エレミヤも「あなたと共に」と誓われる神が、この出来事の背後におられることを信頼して「間」を生きよと語りました。目の前のことにだけ目を注げば、歯車が狂ったようにしか見えないかもしれない。しかし、その背後におられる神を信頼できたとき、選ばれてここに、という意味も分かってくるのだと思います。