新しいリズム 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙16章1-4節

説教要旨 9月8日録音


主日礼拝「新しいリズム」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙16章1-4節
パウロは、この手紙の最後の章を、献金の勧めで始めています。「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」。「週の初めの日」、つまり日曜日ごとの献金をパウロが勧めているのは、この日が主イエスの復活の日であるからです。わたしたちにとって日曜日ごとに礼拝し、献金をささげることは当然のことです。しかし、当時のユダヤ人は、週の終わりの安息日に礼拝をささげました。神を知らない異邦人は、日曜日をただの週の初めの日として過ごしました。しかし、キリスト教会は、この主の復活の日曜に礼拝をささげ、一週間を歩み出す新しいリズムの中に生き始めたのです。信仰は、よく心の問題として扱われますが、こういうリズムの変化を考えるとき、具体的な生活そのものに関わることだと思わされます。 パウロは、「各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに…」と言います。「収入に応じて」とは、直訳すれば、神に「豊かにされた分だけ」という言葉です。自分の持ちものは、自身の力で得たものではなく、神から与えられたもので、神の祝福のしるしだ、と考えているのです。そうは言っても、日常生活の中では「自分のものは自分のもの」と考えることも多く、なかなか手放すことは難しいものだと思います。 ある人はこう言いました。「あなたのもっている財産のうちで確かなものと言えるものは、あなたが人に施した分だけである」。確かにそうです。家族や友人、出会い、大切なものはみな「自分のもの」とは言えないものばかりです。自ら獲得したものではなく、与えられたものです。殊に死を考えるとき、最後に「自分のもの」といえるものはいよいよなくなってしまいます。もし、わたしたちが施しをすれば、きっとそれを受けた人は言うでしょう。「あなたに助けられた」と。そのように誰かに受け取られた時にだけ、自分は財産を与えた、と本当に言えるのだと思います。 人は、与えることを忘れると、自分の利益ばかりを考えてしまいます。イスカリオテのユダがそうでした。マリヤが高価な香油を、主イエスの足に注いだとき彼は言いました。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」(マタイ26:6-、ヨハネ12:1-)と。誰もが無駄を嫌いいます。無駄のない生き方は、人生の美徳の一つに数えられるかもれません。しかし、その「何が必要で、何が無駄か」という判断が自己中心的であることが問題なのです。わたしたちはいつも、自分の利益や得を考えて、この世界を見てしまうのです。 無駄のない、合理主義的な生き方は確かに賢い生き方と言えるかも知れません。けれども、人生における「無駄」とは何でしょうか。無駄のない人生を送れば、人は本当に幸せになれるのでしょうか。そもそも誰にとって無駄なのか。無駄だと判断しているのは誰なのか。本当の所は、神にしか分かりません。それなのに自分で判断しようとするのなら、神のいない世界に生きてしまっているのではないかと思います。 マリヤはなぜ高価な香油を注いだのでしょうか。彼女は献げることに何の抵抗もなかったのだと思います。それがマリヤの礼拝でした。わたしたちは毎週、礼拝をしますが、いつもメリット、デメリットを考え対価を求めていたら礼拝なんてできなくなるのだと思います。キリスト者は、無駄をしないという言葉が当たり前に聞こえる世界にあって、礼拝に自分の時間をささげることを当然のこととしています。これこそが信仰者の持つ新しいリズムなのだと思います。無駄なことはせず得を取る生き方から、献げる生き方を始めることができるのは、神を知るときです。 神が合理主義で、損得勘定を考える方であったなら、人を救うために独り子を差し出すというクリスマスの出来事は起こらなかったはずです。神はわたしたちが本当の愛を知るために、惜しまず差し出されました。わたしたちが無駄と考えるものを聖書は「愛」と呼びます。神は、人が「もったいない」「愚かだ」と思う仕方で、わたしたちに命を与えようとされました。神の愛の浪費によって命を得、赦されて生きていることを知っているのが、キリスト者です。キリスト者は、損得勘定では決して見えてこない愛を知る者です。そのしるしが献金であり、礼拝です。わたしたちは、神の愛ゆえの新しいリズムに歩み続けたいのです。