イスラエルの最初の王 小松 美樹 伝道師 サムエル記上10章17-24節

説教要旨 9月29日録音

主日礼拝「イスラエルの最初の王」小松 美樹 伝道師


サムエル記上10章17-24節
イスラエルの最初の王の話です。主なる神がイスラエルの民を救い、導いておられたので神への信仰が王を必要としていませんでした。しかし、今イスラエルの民は王が欲しいと言うのです。
サウルは突如として王に任命されました。人々の前で公に「くじ」で王になることが示されました。くじ引きは新約聖書でも弟子の選出の際に行われていて、多数決や人の意見で選ぶのではなく、神の御意志を問う方法として用いられます。その時サウルは荷物の間に隠れていて、人々は走って行き、サウルを連れてきて、民の真ん中に立たせて「王様万歳。」と喜び叫びました。
それまでの部族社会の上に王が登場するという大きな変革です。戦争のために他の国々のように王を立てます。ペリシテ人との戦いが続く日々に、常設の軍隊を率いる王を立てて、安全を得るための策でした。しかし真の意味では、直接語りかけ導いてくれる目に見える存在が欲しかったのだと思います。それは「王様万歳」という言葉にも現れているように思います。万歳と訳されている言葉は「生きる」という意味で、他にも「命がながらえますように」と訳されている箇所もあります。直訳すると「王が生きるように」。イスラエルの民にとって、救い、導き出した主なる神は、自分たちの生活から遠く離れ、危機にも頼れず、無力な「死んだ神」であったのでしょう。
王に選ばれたのはベニヤミン族の若者のサウルでした。しかし、サウルの王国は長くは続きません。ペリシテ人との戦いの時、預言者サムエルはサウルに「私の到着を7日間待って、捧げ物をして、そして出陣せよ」と命じていました(13:8-)。しかし7日経ってもサムエルは現れませんでした。すぐに手を打たないとペリシテ軍に攻め入られてしまうという兵士たちの不安にサウルは答え、自ら捧げ物をし、戦いを開始しようとします。これが神への裏切りで、背信となりました。主の言葉に耳を傾けるよりも、人々の言葉に聞き従ったのです。
旧約には王の規定が書かれています(申命記17:14-)。またイザヤ書32章1−2節には、民に仕えられる王ではなく、民に仕える王が「正しい王」と呼ばれています。今日の交読詩編の第2編は、王の即位式と言われます。現実世界の混乱に直面すると、王は自身に従えと、服従を要求して事を治めようとする。しかし、ここで言われている王は、その混乱の中にしっかりと立っています。それは不動の信仰者の姿です。神こそが唯一の世界の支配者であるという信仰の故です。王というのは、その神の権能をこの国の民を導くために委任されています。王はひたすら神に服従し、自分の行おうとする事柄を主に委ねていくのです。
待ち望み歌われてきた詩編の言葉は、福音書の主イエスが洗礼受ける時に、天から響いてくるのです。マタイ、マルコ、ルカで主イエスが洗礼を授けられたあと、「あなたは私の愛する子」という声が天から響きます。
主イエスの王としての姿として象徴的なのは、ロバに乗ってエルサレムに入場される姿や、弟子たちの足を洗う姿でしょう。主が弟子たちに示されたのは「僕」としての生き方です。私たちが「王」である時、また「主人」である時、神に祈るものでなければ、神と敵対するでしょう。家の主人やお父さんが祈らない人ならば、それは王になります。けれども、祈る人であるならば、王は主なる神であって、その人は王にはなりません。
サウルの王としての姿は失敗であったにも関わらず、聖書は記すのは、勤めの難しさや失敗を繰り返さないためだとも言えるでしょう。王も元をたどれば同じ民の一員です。王は特別な責任がありながらも、民の一員として神の御意志に従うものでなければなりません。
サウルが突然王に任命されたように、私たち一人一人に与えられている勤めがあります。教会の役員として、奏楽者として、家族を支える者として、子を育てる者として、学校や職場、地域で、社会で。まだ気づかずにいる主からの勤めもあるでしょう。引き受けたくない勤めが与えられることもあるでしょう。私たちの成すべき勤めは、人の声を聞いているだけではわからない。主の御声を礼拝によって、また祈りによって待たなければ知ることができないのです。神ではなく別のものに頼り縋ろうとする私たちです。けれども、主は私たちを救おうとして手を差し伸べてくださいます。私たちの救い主イエス・キリストをお与え下さいました。主の御心は、私たちを捨てるのではなく、イエス・キリストが捨てられることを引き受けてくださったのです。どこまでも謙りくだり、私たちを赦し贖ってくださる主イエスに従って歩んで参りましょう。