注ぎ出す祈り 石丸泰信 牧師 サムエル記上1章9-20節

説教要旨 9月15日録音


主日礼拝「注ぎ出す祈り」石丸泰信 牧師


サムエル記上1章9-20節
「敬老の日」に重ねて歳を重ねる幸いを覚える礼拝をささげています。キリスト者にとって、歳を重ねる幸いの一つは、「祈りを重ねる幸い」です。今日の聖書は、ハンナという一人の女性の祈りの姿を描いています。ハンナの夫エルカナには、ペニナというもうひとりの妻がいました。ペニナには子がありましたが、ハンナには子はなく、このことがハンナを苦しめました。「毎年…彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった」とあります。エルカナは誰よりもハンナを愛し、彼女を慰めようとするのですが、ハンナの痛みが癒えることはありませんでした。
たとえ夫婦であっても、互いに手の届かない領域があるのだと思います。誰にでも、人に理解されない苦しみ、孤独があります。ハンナも、誰に話すこともできない孤独の中にありました。あるいは、誰かに相談したこともあったのかもしれませんが、そのことで傷つくこともあったかもしれません。このときハンナはどうしたか。「悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」とあります。その様は泥酔した者のようで、誤解して注意した祭司のエリに対して、ハンナは否定しつつ言いました。「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」。「わたしの心を注ぎだしておりました」という翻訳もあります。祈りとは「心を注ぐこと」なのです。
聖書の言葉で「心」は、「魂」であり「息」です。人は生きている限り呼吸します。「息」は人間の命を指します。息を注ぐハンナの祈りは、命を注ぎ出すようなものでした。また、「注ぎ出す」という言葉は、「空っぽにする」という意味の言葉です。ハンナは、空っぽになるまで主の前に自らの命を注ぎ出していたというのです。
わたしたちは、しかし、自分の悩みを人前ですべて注ぎ出すことはできません。神の前でも、なかなかできないのではないかと思います。神の前でさえも、どこかよそ行きの、上滑りするような言葉でしか祈れないのではないかと思うのです。
癌患者の終末期医療として、在宅ホスピスに取り組んだ河野博臣という方が次のようなことを書いていました。河野さんのところに末期癌の女性が入院しました。女性は癌のためにお腹が膨らみ、苦しんで鬱状態に陥り、医者にも看護師にも口を利かなくなりました。この女性を担当した見習いの看護学生は、何をして良いかわからず、ひたすら手を握り、痛いと言えばそこをさすりました。次第に女性は、その学生に話すようになりました。自らの人生を振り返りながら話すこともあり、話がはずむと、苦しみを訴えることは少なくなりました。女性は、ひたすら聞いて、丁寧にさすってくれる学生に心を打ち明け、人生の苦労を注ぎ出して癒され、病を受け入れて穏やかに召されました。
わたしたちが心の奥を明かすことは簡単ではありません。しかし、わたしたちは、ひたすら与え尽くし、空っぽになってくださった主イエスの御前に祈るのです。祈りは「献げるもの」です。言い方を変えれば、神に渡し、任せてしまうものです。
ハンナは言いました。「わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました」(27節)と。続けてこう言います。「わたしは、この子を主にゆだねます」(28節)と。この「願った」という言葉と「ゆだねます」という言葉は、同じ言葉です。ハンナは心を注いで祈りました。この祈りは、ハンナの「願い」であるのと同時に、「ゆだねること」なのだと聖書は示しています。
わたしたちにとって「願い」は、「得ること」を意味します。しかし、自分で握っていた「願い」を手放し、神に渡してしまうことが、真実な祈りです。
祈りの後、ハンナの顔つきは変わりました。聖書は、祈りによって心を注ぎ、痛みや悩みを主にゆだねるとき、人は顔が変わると言います。祈れば問題が解決するということではありません。しかし、祈り、ゆだねるとき、その結実がいかなるものであっても受け止めることができるようになるのではないかと思います。歳を重ねれば、悩みや痛みも加わります。けれども、その一つひとつを手放し、ゆだねるとき、わたしたちは祈りを重ねる幸いに本当に生きる者とされるのです。