穏やかではない信仰生活 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 16章5-12節

説教要旨 9月22日録音

「穏やかではない信仰生活」 石丸泰信牧師

Ⅰコリントの信徒への手紙 16章5-12節
パウロは、この手紙を締めくくるに当たって献金ことを書きました。そして、ここで旅行のこと、他の教師のことを言います。パウロは今、エフェソにいます。そこからマケドニア経由でギリシアの諸教会を尋ねる。その際、コリント教会にぜひ滞在したい。しかし、五旬祭(ペンテコステ)まではエフェソにいるので待っていて欲しいと言います。
そして、若き伝道者テモテの話を始めます。もう、そちらに送り出したので「そちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようにお世話ください」と。どうしてテモテの心配をしているのか。おそらく、テモテ自身、問題を抱えていたのだろうと言われています。弱いところがあった。人々に軽んじられてしまうところがあったわけです。彼自身、コリントに行くことを恐れていたかも知れません。しかし、それなのにどうしてテモテを送るのか。それは、そういう人こそ、神は用いられるということを知っていたからです。パウロ自身、優れた人でしたが弱点も持っていました。その自分が用いられているのと同様に、テモテもということです。パウロは「誰も彼をないがしろにしてはならない」と言っていますが、それは、この人でなければ現せない神の思いがある。それを見逃さないようにして欲しいと言っているのだと思います。
そして、パウロはすぐにコリント教会へ行けない理由を述べています。「わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」。ここですべきことがあるということです。伝道のための大きな機会が来ているということです。けれども、それと矛盾するようなことも言います。「反対者もたくさんいる」。伝道者の働き、教会の営みは福音を告げることです。それが響いているのであれば、反対する敵はいないように思えます。けれども、彼は敵がいることを当たり前のような口調で言うわけです。どうしてか。それは同時に、その福音を受け入れるというのは、自分を捨てることだからです。今までの自分を捨てて新しいものを受け入れる。そこには居心地の悪さが生まれるからです。ある人は、こう言います。「敵のない穏やかな信仰生活はあるのでしょうか。もちろん、求めて敵を作るわけではありません。しかし、敵のない信仰生活には、どこか問題があるのでは無いでしょうか」。教会は聖書の言葉で「エクレシア」と言います。「神に呼び集められた者たち」という意味の言葉です。気の合わない人を排除して気の合う人ばかりを自ら集めた場所は教会ではありません。
理想の場所。桃源郷のことをユートピアと言います。これもギリシア語です。語源はウー・トポス。ウーは否定の接頭辞。トポスは場所です。つまり、ユートピアとは「そんな場所はない」という意味の言葉です。誰の理想も叶う場所。そんな場所はないのです。理想の場所がきっとある。誰もが思います。けれども、どこに行っても同じです。あの人のせい、この人のせいではないのです。自分の問題です。敵はあの人ではない。敵は自分の中にあるのです。
「反対者もたくさんいる」とパウロは言います。彼も同じ問題を抱えていました。けれども、だからこそ、彼は動かないのです。パウロは他の手紙で「神の武具を身につけよ」と言います(エフェソ6:13-)。誰か敵と戦うわけではありません。戦うのは自分の中にある罪です。私たちは、一度誰かに「あの人は敵だ」というレッテルを貼ると、なかなか剥がせません。剥がすどころか、その人が敵であることの尤もらしい理由を次々と考えます。そして、もう回復の余地なし、と決定的な決断を下します。聖書研究会、祈祷会でヨナ書を読んでいますが、神は一度期待を裏切ったヨナを、もう一度同じ言葉で迎えます。神は決して「なぜ、あの時従わなかったのか?」と問い詰めません。どうしてか。神は、信頼する事を諦めない方だからです。神は、その人の過去ではなく、その人の回復、可能性、将来を期待し続ける方だからです。主イエスもそうです。ペトロの三度の否認を主は知っていました。しかし、知ってなお、その人を受け止め、主はペトロに使命を与え、教会は立ちました。教会は偉大な信仰を持つ者によって始まったのではありません。赦しを知った者たちが愛を知って教会は立ったのです。
もちろん、相手の失敗や悪意を正当化するつもりはありません。反省することなしに相手の善意に甘えることは正しいことではないと思います。しかし、私たちには、それでも、何度失敗しても赦され、受け入れられる場所が必要なのだと思います。そこでこそ、人は新しくなれるからです。自分には敵がいる。そう思うことは悪いことではありません。かつて誰もが神の敵でした。礼拝は、その神の忍耐と赦しを思い起こす時です。人は誰かの赦しに慣れてしまうと、どれだけ相手が心を砕いていたかも忘れ、感謝も忘れ、不満すら口にしてしまうものです。その固くなった心を柔らかくするのが礼拝です。