知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げます 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙8章1-6節

説教要旨 11月18日録音


主日礼拝 「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げます」 石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙8章1-6節
 当時、コリントの町では異教の神殿からの払い下げの肉が売られていました。神殿に捧げられた犠牲から祭司が取り分けた残りの肉が市場に売られ、その肉が食卓に並びました。異教の儀式を経た肉をキリスト者が口にしてもよいのか、議論になりました。神殿には直営レストランがあり、日常的に利用されていました。こういう環境にあって純粋な信仰生活を貫きたいと願った人たちがいました。日本に住むわたしたちも共感します。観光で訪れた神社で、拝みに来たわけではないと自分に言い聞かせる人もあるかもしれません。仏式の葬儀でお焼香をするとき、ただ香に火をつけただけで良心を汚したように感じてしまう人もいます。
 このような日常生活の迷いに対してパウロは答えます。「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。…たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです」。パウロの立場は明快です。神は唯一であって、偶像の神は存在しないので偶像に捧げられた肉というのも汚されることはない、と言っているのです。
 偶像を否定するとき、「唯一の神」という存在が重要です。神もいないと言うならば、あらゆるものが神になりえるからです。学問の神。商売繁盛の神。縁結びの神。多くの人はそう呼ばれるものからパワーを得ようとします。しかし、この世界を造り、歴史を導く、すべての命の根源である神を信じてはいません。だから、あらゆるものが神になり、あらゆるものを畏れて生きています。偶像は形あるものばかりではありません。例えば、受験生であれば、志望校への合格が偶像となります。勉強するとき、合格だけが幸せで、それ以外のものがイメージできないならば、まるで鎖でペンに繋がれた奴隷のようになってしまいます。それは仕事においても同じです。パウロが「唯一の神」と言うとき、畏れるべき方はただ神のみだと言っているのです。
 パウロはもう一歩進めて語ります。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる…神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」。わたしたちが知っていると思っていることは、先に神がわたしたちを愛してくださったことによってもたらされたことです。それによって真の神を知りました。正しい知識は人を自由にします。しかし、そこには高ぶりが生まれます。すると、弱い人は小さくされます。神が自分たちにそうしてくださったように、知識ではなく愛を誇ろうとパウロは言います。パウロがこう語るとき、教会や家庭、仕事場といった共同体の場を考えています。ある人は、愛とはつまり「創造的な発見」だと言いました。主イエスがここに来られて、わたしたちをご覧になり、正しい知識によって評価されるなら、わたしたちはただの罪人です。それで終わりです。しかし、主は「あなたは救いようのない罪人だ」と言って去られたのではなく、共に歩き、食事をされ、罪や恐れから解放された本当の人間へと作り替えられました。
 「パッチ・アダムス」という映画があります。パッチ、ユーモアによる治療の重要性を説き、実践したアメリカ人医師です。彼自身が精神病棟に入院したとき、同室の患者が「リスがいる」と言い出しました。幻覚ですが、リスが恐くてトイレに行けないと言います。正しい知識で語るなら「リスなどいない」で終わります。事実です。でもそこに愛はありませんパッチは言いました。「一緒に戦おう。やっつけるから大丈夫」。それは事実ではないかもしれません。しかし、その患者にとっては事実よりも、もっと本当の言葉です。彼はその人をよく見ていたからこそ、創造的な言葉を発見することができました。パウロは別の手紙にこう記しています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12:15)。人は、正しさによって「変わりなさい」とか「あなたはダメだ」と言われて本当に変わることはできません。共に歩き、共に泣き、本当にその人を知るとき、本当の喜びに出会えるのだと、パウロは言います。キリスト者が本当に知らなければならないことは、この愛だと聖書は語るのです。