ひとり子 イエスさま 石丸泰信牧師 マルコによる福音書15章33-41節

説教要旨 11月11日録音


合同礼拝(主日礼拝) 「ひとり子 イエスさま」 石丸泰信牧師


マルコによる福音書15章33-41節
 今日の箇所は、イエスさまが十字架の上で死なれた場面です。なぜイエスさまは殺されてしまったのでしょうか。イエスさまが悪いことをしたからではありません。周りの人たちが悪人だったからでもないのです。イエスさまを殺した人たちは皆、良い人たちでした。いつも祈り、助け合って生きていた人たちです。なぜ良い人たちが、イエスさまを殺してしまったのでしょうか。それは、イエスさまが、皆を愛してどんなことも赦していたからです。
 誰でも何か失敗したときに、赦してもらえたら嬉しいと思います。例えば、3人の友人と映画を観に行く約束をしていて、待ち合わせに遅れてしまったとして。大遅刻のせいで、その日は映画を観られなくなりました。そのとき「いいよ、何か事情があったのでしょう」と赦してもらえたら嬉しいと思います。でも、もし自分が待っていた側で、今日しか観られない映画を観損ね、もう一人の友人が「また今度ね」と言って赦すのを見たらどうでしょうか。「どうして赦してしまうの?」と腹が立ちます。この怒りはどこに行くのでしょうか。
 聖書は多くのアニメや映画のような勧善懲悪の物語ではありません。悪人を問題にするのではなく、善人を問題にします。善人たちの心の中にあるものをよく見ています。聖書は、イエスさまの十字架の出来事を語るときに、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と言います。真昼の闇という描写は、自然現象ではなく、そのとき人間の内側にあるものが現れ出たことを暗示しています。わたしたちの心の中にある闇が、この世界を真っ暗にするほどだと聖書は語るのです。こう言った人がいます。「悪人を赦す者は、善人を傷つける」(セネカ)。イエスさまは人の心の隠れたものを露わにされました。「なぜあの人を赦してしまうの?」という善人たちの心にある闇によって、イエスさまは十字架にかけられました。
 聖書に次のようなお話があります(ヨハネ福音書8:1-)。あるとき、一人の女性が皆に囲まれていました。既婚者を好きになり、結婚を壊してしまった女性でした。結婚を壊してはいけないというのは、神さまの掟です。皆はこの掟を破ったその女性を裁判にかけて死刑にしようとしていました。そこにイエスさまが居合わせます。皆はイエスさまに問いました。「今からこの罪を犯した女に石を投げて処刑しようとしているが、あなたはどう考えるか?」もし赦すなら神さまの掟を軽んじたことになります。でももし死刑だと言えば、赦しの教えと矛盾します。イエスさまは何と答えたでしょうか。「一度も罪を犯したことのない人だけが、この人に石を投げなさい」。石を投げる人はいませんでした。ここに集まっていた人たちは善人たちです。でも皆「一度も」と言われると、考えこんでしまいました。イエスさまは皆の隠れたところに目を向けさせました。
 石を置いて去った人もいれば、石を手に持った持ったまま帰った人もいます。「なぜあいつを赦すんだ」という気持ちのまま、帰ったということです。その石はどこに行くのでしょう。そして、ここで赦された女性の罪はどこに行くのでしょう。イエスさまはこの人に「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました。「あなたを赦す。大丈夫。あなたの罪はわたしが身代わりになって十字架に引き受ける」という意味です。そして、人々が持ち帰った石は、イエスさまが十字架にかけられた日、「イエスを十字架につけろ」という叫びになって現れました。
 なぜ、イエスさまは十字架にかかられたのでしょう。失敗した人のことを赦したかったからです。そして「なぜあいつを赦すんだ」という善良である人たちの気持ちも受け止めたかったからです。人の心に中には赦せない気持ちがあります。その気持ちを他の誰でもなく、わたしにぶつけなさい。わたしはあなたの神だから。わたしがあなたを守る、とイエスさまはおっしゃいます。自分の罪の借金は、自分の努力では返せません。だれかが一方的に赦してあげるしか方法はありません。虫のいい話です。でもだからこそ、「あなたを罪に定めない」と言われるイエスさまの言葉は、福音なのです。十字架におかかりになったイエスさまの姿から声が響いてきます。「これからは喜んで生きなさい。これからのあなたに期待」。