神の涙 石丸泰信牧師 ヨハネによる福音書11章17-37節

説教要旨 11月4日録音


永眠者記念礼拝(主日礼拝) 「神の涙」 石丸泰信牧師


ヨハネによる福音書11章17-37節

 先に召された信仰の先達たちを憶え「永眠者記念礼拝」を捧げています。この日は命を憶え、また死を憶える日です。死はいつも隣にあります。齢が若いほど死は遠いものに思えるかもしれません。命は、誕生から数えれば先輩、後輩があります。しかし、死から数えるといつも皆が同い年です。もし命が造花のようなものであったら大切に生きようとは思えないでしょう。しかし命は、造花とは違って、手入れが必要で終わりがあります。だからこそ、一緒に生きることが愛おしい、大切だと感じさせられるのだと思います。
 主イエスは、命と死をどうご覧になるでしょうか。親しいラザロの死を前にして、主は「心に憤りを覚え、興奮」されたと聖書は伝えます。この「興奮」という言葉を、「張り裂ける思い」と翻訳する聖書もあります。姉妹のマリアは泣き、周囲のユダヤ人たちも泣いています。ラザロの死が残念、悔しいという思い、残された姉妹たちが痛ましいという思いもあったと思います。生きている間は「命は儚いから美しい」と言えるかもしれません。しかし、死を前にして、わたしたちは泣くことしかできません。諦めるしかない。けれども、主は激怒されます。ひとりの人が失われる、その死の出来事と、主は闘われるのです。
 主がベタニアに来られたとき、ラザロは墓に葬られて4日が過ぎていました。姉妹のマルタは言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。もう手遅れになってしまった、残念で恨めしいような思いも表われています。主は言われます。「あなたの兄弟は復活する」。つまり、万事休す、ではないと。マルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。終わりの時に、死んだ者も皆復活して神の審きを受けるというのは、ユダヤ人の一般的な信仰でした。死後審きを受け、天国か地獄に行くというのは、広く人々の間で信じられていることでもあります。このような復活の思想は、喜ばしいものであるよりは不安を伴うものです。これに対して主は仰いました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と。主は、復活の先にある命をお示しになります。主はこの後、審きの十字架に向かわれますが、審きの死を越えて、復活されました。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」。わたしたちが主を信じるということは、主の命に与っているということです。
 もし自分が事故で死線をさまよい、誰かに助けられたとしたら、そして自分を助けた人がそのために命を失ってしまったとしたら、その人の命あっての自分ということになります。なぜ自分が助かってあの人が・・・と思い悩むことがあるかもしれません。しかし、だからこそ、あの人の分も生きよう、あの人の命に恥じない生き方をしたいと思うに違いありません。辛い時には、この命あっての辛さと感じ、嬉しい時にも、この命の上に与えられた喜びと感じるでしょう。命をくれた人の家族に会ったり、その人を思い起こす食卓につく時に、自分の中でその命が生きているという思いを深くします。
 主は、わたしたちがこの命のつながりを思い起こすために、聖餐を制定されました。礼拝や祈りによって、そして何よりも、聖餐のパンと杯によって、わたしたちは主のからだと血とに与ります。こうしてわたしたちは主につながり、主と共に神の審きを超え、主と同じ命に与るのです。
 ラザロの友人たちが墓を案内し、「主よ、来て、御覧ください」と言うと、 「イエスは涙を流された」。恐れや寂しさの対象は、死だけではありません。一緒に泣いてくれる人がいないということです。本当の自分の悲しみを分かってくれる人がいないことです。しかし、主はそこで涙を流されるのです。誰も自分を理解してくれない。誰も自分の悲しみまで降りてきてはくれない。そうであったとしても、主が傍にいてくださる。それが、「イエスは涙を流された」という言葉の意味です。わたしたちの命も、また、先達たちの命も、その救い主の涙に守られていて、いまも守られ続けていることを憶えたいと思います。