人を造り上げる祈り 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙14章6-25節

説教要旨6月2日録音


聖餐礼拝(主日礼拝)「人を造り上げる祈り」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙14章6-25節
コリント14章のテーマは、教会の礼拝で語られるべき言葉は、異言か、預言かということです。預言も異言も共に神の霊からの贈り物として人に与えられるものと考えられていました。そして、コリント教会では特に異言の賜物が優れたものとして重んじられ、それを求めるということが起こっていました。しかし、パウロは言います「異言を語ったとしても・・・あなたがたに何の役に立つでしょう」。
なぜ、異言は役に立たないのか。相手に話している言葉の意味が伝わらないからです。進軍ラッパがはっきり音を出さなければ、兵士たちは何が指示されているか分からなくて動けないように。日本語を知らない外国人に一所懸命日本語で話しても会話にならないように。相手に伝わらなければ、言葉は役に立たない。異言はそういうもの。だからこそ言います。「教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい」。共同体を造り上げるための賜物を求めよと彼は言うわけです。
一見、現代の私たちには関係のない話に聞こえます。しかし、相手に言葉が伝わらないという事態は様々な場面で経験しているのではないか。相手への言葉が誤解されて伝わったり、反対に誤解して受け取ったり。その時、互いの間で交わされているのは異言であると思います。どうして、そうなるのか。自分の言葉を吟味しないといけない。言葉が異言のようになってしまうのは、自分を造り上げることしか頭にないときです。相手に話しているつもり。正しいことを言っているつもり。でも、実際は自分の満足、自分のためだけを思い、共に生きるための言葉になっていないとき、わたしたちは、互いにやかましく異言を語り合っています。思い上がり。独りよがり。それが言葉を通じさせなくします。パウロは、まず「愛を追い求めなさい」(14:1)と勧めます。人は愛を見失うとき、相手が見えなくなります。自分しか見えなくなる。それが異言の始まりです。
どうしたら良いか。パウロは「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で讃美し、理性でも讃美することにしましょう」と言います。この理性とはなにか。この言葉は「心」とも翻訳できる言葉です。他の手紙ではこう言われています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)この「心」が理性と同じ言葉。つまり、何が御心であるか問いながら祈ろう。何が良いことであるか思いながら歌おう。パウロは、そう言いたい。その時、そこにいる人は、心から、その祈りにアーメンと言える。自分の罪さえ指摘されて、まことに、神はあなた方のうちにおられますと言えるから、と。
「祈りの力」(war room)という映画があります。エリザベスという人が一人の老婆と出会って祈りを知り、生き方が変わっていく姿を描いたものです。彼女は、今まで夫が家族を愛してくれていないと思っていました。けれども、自分も自分の事ばかりで子どものことを愛していなかったと気が付きます。気がついた時、祈りが変わりました。夫が悪い。だから助けてくださいという祈りをしなくなりました。わたしが夫を愛せますように。子どもを愛せますように。わたしの権利を主よ、あなたに引き渡せますようにという祈り。自分を変えてくださいという祈りです。その後、夫が仕事で失敗をしたことを聞きます。いつも通りならば、喧嘩が始まり、相手を責めて自分が有利になる時です。しかし、エリザベスは言いました。「一緒に乗り越えましょう」。夫は言い訳を考えていました。しかし、その必要がないように、彼女は彼を包んでくれたのです。その時、夫は自分の罪深さを悟ります。パウロの言う、霊で祈り、理性で祈る祈りというのは、その祈りの言葉の素晴らしさに、人々がアーメンと言う。自分の罪を悟るというのではないと思います。いつも何が御心で何が良いことかを問う心で祈っているからこそ、言葉が通じるのだと思います。「一緒に乗り越えましょう」とは、一見、なんでもない言葉です。しかし、そこに愛があることが伝わった。そして、それに触れて、いかに自分は冷たく生きていたかを悟らされた訳です。
自分を変えてくださいという祈り。喧嘩で勝てる権利を捨てて、人を造り上げる祈り。なかなかできない祈りです。わたしたちはいつも人を壊しも、造り上げもしない祈りばかりをしてしまう。しかし、祈りには力があります。神の思いを知る力。自分は変えられていく力。信じて祈りたい。