実り続ける教会 小松美樹伝道師 ヨエル書3章1-5節、使徒言行録2章1-21節

説教要旨6月9日録音


聖霊降臨日礼拝(主日礼拝)「実り続ける教会」小松美樹伝道師


ヨエル書3章1-5節、使徒言行録2章1-21節
教会学校の子どもたちと合同礼拝を捧げると共に、ペンテコステ礼拝という教会の記念の礼拝を捧げています。ペンテコステというのは「50」という意味で、十字架の死と復活から50日目の出来事でした。その時の出来事が書かれた聖書を読みました。ペンテコステは元々、収穫を祝ってお祭りをしていました。食べ物が育つこと、育てたものができたということを「実る」と言います。大事に育ててきたものが実るのは、嬉しさが溢れるような時です。だから神様に感謝する、お祭りをしていました。その収穫を祝う祭りの日が、教会の大きな喜びの日になったというのが今日の聖書の話です。教会の始まりの時について、昔から旧約聖書のヨエル書で預言されていました。大勢の人たちが集まる中、聖霊が降るということが起きたのです。激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、それが家中に響き渡りました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまりました。すると一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出しました。今私たちの周りにいる人たちが、ほかの国々の言葉で突然話し出したら、何が起きているんだろう!と驚くと思います。隣に座ってる人が突然違う国の言葉で話しだすようなことです。そこにいた人たちは驚きました。しかし、そこにいたのはいろんな国から集まってきた人々でしたので、自分の国の言葉で語られるその言葉の意味がわかりました。それは、神の偉大な業、神がどんなことをなさったのかということを世界中の人に伝えるためでした。
「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。」と言われていました。「幻を見る」と言われていたけれど、幻ではなく教会が来ました。教会は私たちが夢を見て、幻をみるところということなのだと思います。夢や幻は、過去ではなく、これから先を思って見るものです。上を向いて先を見つめて、思い描く、希望をもってみるものでしょう。教会で、夢や幻を見るというのは、教会にその希望があるのです。幼い子どもはやりたいことや夢があり、毎日が楽しみや希望でキラキラしているように思います。しかし、いつからか現実や課題に追われて、嫌な思いに覆われてしまうように思います。私たちは教会に集まる時、それらの日常の全てを置いて集まります。毎日の生活の中で忘れてしまう神様の言葉や神様の愛を教会にきてしっかりと思い出し、先を見ることができます。ペンテコステの出来事は、この日本にも届き、今ここで私たちは神の言葉を聞きに集まっています。
今日もこの礼拝の中で、実りと希望が与えられます。幼児洗礼式と聖餐式があります。洗礼を受けるということは、主人をもつということです。信頼できるもの、信頼できる言葉を持つこととも言えます。自分の「主人」を持ち、自分の基準を持つということです。
みんなにとっての基準は、まずは親であると思います。お母さんが「いいよ」と言ったら大丈夫。「だめ」と言ったらやってはいけないんだ、というのが基準。学校や保育園の先生も同じです。大人になるとその基準がなくなり、自分で決めるようになります。しかし、教会に集まっている人たちは、聖書になんて書いてあるかな?神様なんて言うかな?と考えます。自分ではなく聖書が基準になります。信じるということは、目に見えず、忘れてしまうので、公に言い表して見えるしるしの聖餐式をします。聖餐式はイエス様が死んだというしるしです。私たちのために命を捨てて救ってくれた、イエス様の死を記念するものです。
幼児洗礼も、教会と家族で「この子を神の声に聞き従って育てていきます。」と言い表すものです。神の言葉を基準に子供を育てるということです。自分の子を私のものにするのでなく、私の思うように育てるのではなく、神様の子として育てていくのです。
ペンテコステの日に教会ができて、希望が与えられて、その希望が繋がっているからこそ、教会が実り続けます。神の霊が与えられることは、人々が教会に集まって、神様の言葉の方へ向こうと立ち上がる力が与えられます。教会の誕生は説教の始まりです。ペンテコステの日、聖霊によってペトロが立ち上がりイエス様の話を人々に伝えたように、私たちも教会で救いの出来事を語ります。今日もイエス様を私たちの主として集まり、教会で実りと希望が与えられて、礼拝から背中を押されるように歩んでいきましょう。